爪書き阿弥陀(昔話10)

・爪書き阿弥陀

高浜は霞ヶ浦が大きな内海だった頃から昭和初期までの江戸までの物資輸送が水上交通としての船が使われている頃まで常陸国国府の重要な港町でした。

大和朝廷からやってきた国司たちはまずこの港から船で一の宮である鹿島神宮に参拝に行くのが習わしでした。
 
この高浜の町並みの中ほどに西光寺の阿弥陀堂(地元では西の観音という)が建っています。

お堂の中には観音像とともに、1mくらいの自然石が安置されています。

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この石には昔から伝えられている話があります。

それは、昔、親鸞上人がここから鹿島神宮に参拝のために、ここから舟に乗ろうとこの里にやってきました。

そこに腫れ物で苦しんでいる一人の男がいました。

その様子を見て、上人は気の毒に思って「その苦痛を治してあげよう」と声をかけました。

しかし、男は頑固者で「放っておけ、俺は天命を待つばかりだ。
汝がごときにこの苦痛が治せるはずがない」と最初は聞き入れませんでした。

上人は静かに念仏を唱えながら、その男の身体をなぜはじめました。

すると不思議なことに痛みがみるみる引き、腫れ物もひいてきたので、男は驚いて、寝床より起き上がり、心より上人にわび、小麦の焼いたものを勧めたといいます。

やがて上人が西浦から船に乗るために浦の岸辺にいくと、その男がやってきて「お蔭様で、現在の苦痛は治りましたが、未来の苦痛も取り除いて下さい」と懇願しました。

すると上人は「極楽往生を願うなら、常に念仏を唱えることだ。
また、汝の家の庭にある石は阿弥陀如来が宿っているから、今後はそれを信心するがよい」と言って船に乗り込んでいってしまいました。

家に帰って男は庭の石を見てみると、そこには如来の尊像が浮彫りのように現れていたので大いに驚き、男はここに一堂を建てて、自ら「常願房」と称して上人に弟子入りしたのです。

このため、この阿弥陀堂は「爪書き阿弥陀(如来)」として親しまれているのです。

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(阿弥陀如来像が浮き彫りになった石板)

(あとがき)

親鸞聖人は越後に流罪となった後、その罪を許されてからも京には戻らず主に常陸国での布教につとめた。
稲田(現笠間市)の草庵で「教行信証」を表したと言われている。
その間、書物や仏教の経典を読むために鹿島をたびたび訪れたと言われている。
高浜から舟で鹿島に渡ったことも何回もあったのだと思われる。
この爪書き阿弥陀の話以外にもこの地方には親鸞聖人の逸話が数多く残されています。

小美玉市や鉾田市の鹿島への陸上ルートにも多くの話が残されており、当時は両方のルートが使われていたものと考えられます。
石岡地方の昔話 | コメント(0) | 2014/09/11 22:00

三村落城秘話(昔話11)

■三村落城秘話                         

 戦国時代はここ常陸府中でもこの地に綿々と続いてきた平氏の名門大掾氏も多くの敵に囲まれる状態に陥っていた。

室町幕府も天正元年(1573)に15代将軍足利義昭が京を追放されてその幕を閉じた。

その同じ年に大掾氏も府中を取り囲むように出城や砦を設け、そこに兄弟や腹心の家臣を配し、周りからの敵と対峙していた。

府中(石岡)から高浜の川を渡った高台には三村城(今の三村小学校の場所)があり、南からの天敵である小田氏に対する防御を固めていた。
そこの城主は府中城の城主大掾(平)貞国の弟である大掾(平)常春であった。

 天正元年(1573)二月、府中の城主、大掾(平)貞国(常春の兄)は、小川の城主(園部)を攻めようとしていた。
そして三村の城主、常春も兄に加勢のため三村城の本丸に集まっていた。

その時、城の北方の入江で、すさまじい物音がするので、何事かと城兵が駆けつけてみると、大鷲(わし)と大鰻(うなぎ)がものすごい争いをしていた。

大鷲は水中の大鰻をさらっていこうと空より舞い降りてするどい爪で攻撃し、一方大鰻は、そうはさせじと必死になって大鷲の首に体を巻きつけて締め上げていた。

大鷲は、それをふりほどこうとおおきな翼をばたつかせ、水しぶきが大きく飛び散り、血が大きな渦巻きとなって辺りを渦巻いていた。

やがて、鷲も鰻も疲れ果て、それを城の飯田七郎左衛門という兵士が撃ち殺し、城に持って帰った。

鰻は体長五尺近くもあり、胴回りも一尺余りもあったという。 また、その鰻は耳も歯も持っていた。

三村城で兵士たちは、出陣前にふしぎなことと思って、なにか不吉な予感もしていたが、小川城(園部)を攻めるために船で出陣したのである。

しかし、この不吉な予感は的中してしまうこととなった。

小川勢に常陸国統一を狙う佐竹氏が見方にはいったため、大掾、三村勢は奮戦したが大敗してしまった。

さらに悪いことに、城が手薄なのを見て取った小田天庵(つくば市小田)が千人の兵を率いて三村へ攻め入った。

三村軍は万策つき、常春は四人の家来をつれて城から落ちのびたが、城のふもとの田に馬の足をとられ落馬してしまった。

ここぞとばかり小田勢は一気に常春の首をねらって攻めてきた。

この時である、常春寺の上空にものすごい稲妻が走り、耳を覆いたくなるような雷鳴がとどろいた。

追手は、体がすくみ、目もくらんでしまった。

常春寺
(三村城の麓にある常春寺(じょうしゅんじ))

常春はこの間に、「今日を限りに」と叫び、自害したのである。若干25歳の若さであった。

その後、常春公は高久保に埋葬され、五輪塔が建てられた。

そこには、椿の木が茂り、いまではひっそりとしている。

また、大鷲と大鰻との亡骸が葬られた場所には鷲塚、鰻塚の地名が残った。

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(三村常春(つねはる)公の五輪塔と椿の木)


(あとがき)

三村城主常春公の墓(五輪塔)は、あまりにもひっそりと立っていた。
案内板もなく、近くの家の方に聞いてやっと分かった。
常春寺より東側へ田んぼの中の道を真っ直ぐ進み、突き当たりを少し左に行ってすぐに右に登ると常磐線の線路の上を渡る。
そのまま線路を越えて進むと左右に民家が1軒づつある。
右側の民家の先を右に下る道があり、この苔むした細い道を下ったところにひっそりと佇んでいた(下りる道は車は通れないと思ったほうが良い)今は椿の木が大きくなっていた。
ここは四百数十年の間、そのままの姿で、続いているのではないだろうか? 
流れる時間がとてもゆっくりとしているように思われた。

この話は常春寺に伝わる話であるようだ。わずかな期間ではあったがこの地で起こった出来事がこうして伝えられていたのも不思議な気がした。

鷲塚、鰻塚という塚も、常磐鉄道の建設工事で大量の土砂を使用するために削られ、その形は今は無い。
しかし中から石棺などが出土し、古墳であったことが判明した。
石岡地方の昔話 | コメント(0) | 2014/09/20 19:43

国分尼寺の黄金伝説(昔話12)

<国分尼寺の黄金伝説>

 常陸国分尼寺跡の付近の尼寺ヶ原(にじがはら)に「ごき洗い」と呼ばれるくぼ地がありました。
 “ごき”とは、「御器」と書き、 「ごき洗い」は、食器などを洗った池があったためにそうよばれていたものでした。

 時は、天正18年(1590年) 豊臣秀吉より常陸国の統一の朱印状を得た佐竹義宣は水戸城を制圧し、その勢いでここ府中の大掾(だいじょう)氏を攻めました。



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そして周囲の出城や砦などを次々に攻め落とされ、いよいよ本丸の府中城に迫って来ていました。

この攻撃の時に多くの寺や民家に火がつけられ、国分寺、国分尼寺も兵火で七堂伽藍焼失してしまいました。

 国分尼寺では、その火の回りがあまりにも早く、中の大切な宝物などを全て運び出すことは出来ない状況でした。

尼寺ですから力の強い者もおりません。

まず大切な仏像や金と銀で作られた調度品や装飾品などを炎の中からやっと運び出しましたが、これを遠くまで運ぶことなど到底できません。

そこで、これらの宝物が侵略者たちに略奪されないように、全てごき洗いの池に投げ込みました。

その後寺は焼け落ち、たくさんの瓦礫がその池を埋めつくしてしまいました。

また哀れにも尼僧や寺院の関係者は全員がその火炎の焼かれたり、崩れてきた瓦礫の下敷きになって皆死んでしまったと言います。

そのためごき洗いの地中には、黄金が眠っているのだと言い伝えられています。

 江戸時代になり、この話を聞いて、この黄金を彫りだそうとある百姓がここを掘りはじめました。

すると掘っている最中に周りの土が崩れ百姓は、崩れ落ちた土の下敷きになって死んでしまいました。

それ以来、人々は仏罰を恐れ誰もここを掘ろうとはしなかったといわれています。

 朝日さす 夕日かがやくごき洗い 黄金千枚 仏千体

尼寺ヶ原 石見に来れば 道もなし  足にまかせて 尋ねこそすれ

尼寺ヶ原にひそかに言い伝えられた歌です。


(あとがき)

常陸国分寺跡と国分尼寺跡はともに国の特別史跡に指定されています。

この尼寺の黄金伝説も2つのまったく異なる年代の話があります。
一つは上に書いたように府中城の大掾氏が滅びた1590年です。
そしてもう一つが、平将門が常陸国府を襲った934年です。

この将門の襲撃でも多くの寺が焼かれ、人びとが蹂躙され、多くの宝物が奪われました。
この時に宝物をこのごき洗い池に投げ込んだと言われています。

寺はおそらく再建され、その後1590年に焼失して無くなってしまったものと思われますが、資料なども全て焼失しはっきり分かっているものはありません。
石岡地方の昔話 | コメント(0) | 2014/10/04 20:03

吉生と峰寺山(昔話13)

 石岡市吉生(よしう)には関東の清水寺とも称される峰寺山西光院があり、ここの欄干から八郷盆地から遠くの方まで見渡すことができます。

この吉生(よしう)には、この吉が生まれる場所という名前がついた謂れが残されています。

この寺は筑波山の中禅寺(今の神社や大御堂も基になった寺)を建てた高僧徳一がこの峰寺山の中腹に登った時に西の方に光がさしているのを見つけ西方浄土を祈願してここに寺を建立したという古くからの信仰のあるお寺です。

 いつ頃からのことだかわかりませんが、この寺は馬や牛の無病息災を祈願する信仰がありました。
ご本尊も馬頭観音です。

昔々、ある日ここにお殿様が奥方(妻)と参詣に訪れました。

しかし、上り坂の途中で奥方が急に産気づいてしまい途方に暮れていた時に、村人が近くの清水を汲んで来て飲ませると痛みは治まり、その後無事に安産で元気な子が生まれたのでした。

そのためお殿さまはこの地に「吉生」と名付け、寺も多くの参拝客が訪れるようになりました。

また、毎年正月の祭礼にはたくさんの馬や牛を連れた人々が山の中腹の寺を目指して坂道に列をなしたそうです。

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(あとがき)

ここ峰寺山西光院からの眺めは最高である。
晴れた日には遠く霞ヶ浦の方まで眺めることができる。

この話のお殿様の時代が何時頃の事かはわかりませんが、多くの書物では「小栗判官」といわれています。
もともと小栗は今の旧協和町(現筑西市)の北部にあった小栗城の小栗判官(おぐりはんがん)の伝説の主として伝わっており、今では筑西市では小栗判官と照手姫を題材にした「判官まつり」が行われています。

しかし、この吉生はその他にも安倍晴明誕生の地という話も伝わっており謎の多い土地と言えそうです。

この山を越えた先は真壁の街でもあり、江戸時代なども近くの峠道を牛や馬をひいてたくさんの荷を運んでいたものだと思います。
伝説はこのように生まれてくるのでしょう。

でも話はたったこれだけです。
何故この話が発展しなかったのか、小栗判官や安倍晴明などの話にすり替わって伝えられているのか・・・・ 

誰も知りません。

石岡地方の昔話 | コメント(0) | 2014/10/18 23:13

仏生寺と北向観音(昔話14)

 今から1000年以上前に筑波郡の中心は北条大池のすぐ近くの平沢地区にありました。

一方茨城郡の中心は今の石岡にありました。

そんなある日、都から浄土を求め旅する一人の僧侶がおりました。

北条の平沢から筑波山から東に延びる尾根へ続くくねくねと曲がりくねった山道を汗をかきかき登っておりました。
不動明王を祀る尾根の上に立ち、登ってきた南の方には今まで歩いてきた山や里が見渡すことができました。

僧侶は、まだこれから行く豪華な七堂伽藍や七重の塔がそびえる国分寺のある常陸国国府(石岡)への思いを秘めておりました。

そしてもうすぐ日も落ち始めておりましたので、旅の僧はこの峠から道を一気に下って行きました。

ようやく急な山道も終わりそうになった時に、ふと山の中に光るものが目に飛び込んできました。

不思議に思って光る方に近づいていくと光っていたのは白檀の木でした。

僧侶は思わずその木を削り、そこに新しい仏が生まれたとさとり、時間の経つのも忘れ一つの仏像をこしらえました。
そして一つの堂宇を建てて、その仏像を祀りました。

そして里人に、この地は仏が生まれた地であるから仏生寺となづけてこの大切な仏像を守って行くように話をして去って行きました。

この堂宇が今ある北向観音堂になっていったということです。

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(あとがき)

北向観音の仏像「聖観世音菩薩立像」については色々な説がいわれています。

この観音像は、行基菩薩が奈良から連れて来た稽主勲兄弟の作ともいわれるが、一説には、観音を背負った回国六部がここにきて病にかかったとき、長い間厄介になったある家の主人に観音のご利益を説き、お礼として残したものともいわれています。
石岡地方の昔話 | コメント(0) | 2014/10/20 23:19

小町伝説と北向観音(昔話15)

 ☆ 花の色は うつりにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせしまに

絶世の美女といわれた小野小町も年をとってくるとやはりその美貌も徐々に世間の噂にも上らなくなってきた。

この晩年がどのようであったのか? 土浦市と石岡市にまたがる地方に面白い話が残されている。

小町はもう晩年に近づいてきた頃、昔の美貌もまだ残っておりましたが肌も荒れやはり往年の面影はかなり薄れておりました。
都の占いで、東国に行けば肌もきれいになる場所もありこの世の浄土があると聞いて東国から陸奥国への巡礼の旅をする決心をしました。

生まれが出羽国(秋田)であり、親類も陸奥国にもたくさんいたのでそちらへも行ってみたいと思ったのです。

そして筑波山の麓の清滝観音までやってきました。
しかし長旅がたたりこれ以上先に進むことができず、この村長(むらおさ)小野源兵衛氏宅にてしばらく逗留することになりました。

小町01
(小町の里:裏山の向こうに北向観音がある)

しばらくお世話になり大分疲れも癒され、近くの清滝観音をお参りしたりしておりました。
しかし疲れと長旅の影響で顔にはイボができ、何とも哀れな姿に、村の人びとはこの山を越えた向こう側に病を癒してくれ、イボとりでも効能があると評判の北向観音があることを聞いたのです。
そこはみやこでも有名な高僧行基が彫った観音像があるというのです。

山はそれほど高くは無く小町の足でも何とか登れそうです。

天気の良い日にこの小野村から裏山に登りました。そして反対側の山ふもとにある北向観音に参拝したのです。
途中山の上の石に腰かけ汗を拭いて一休みすると、そこから北向観音までわずかでした。

komachi石
(小町腰かけ石)

お堂の下にはきれいな池や川が流れております。
小町はその池に姿を映し、衰え、イボもある顔をながめため息をつきました。

そして北向観音の観音様に必死にお願いしました。

するとどこか体も軽くなり気分も良くなってきたのです。
その後、下の池に下りて、水を汲んで飲もうと手を水の中に入れました。

小町はそこに映った自分の顔をみておどきました。
あのイボはいつの間にか消え去り、肌のつやも良いようです。

うれしくなり小町はそこの水で顔や肌を洗い穢れを落として、元気になったのでまた山を越えて小野村に戻って行きました。

北向観音は現世の幸せを叶えてくれるとされます。これは仏が北を向くと拝む人は南向きになります。
このため南の天竺の方に願いが届き、現世の御利益が得られると考えられているのです。

すっかり元気になり、小野家での暮らしも長くなり、また陸奥国への旅も続けようか考えるようになりました。

しかし、寄る年なみには勝てないものです。
元慶7年(883年)に69歳で別な病に罹りとうとう帰らぬ人になってしまったということです。

小野家では敷地の近くに小町の墓をつくり毎年供養を重ねてきたと言います。

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(石岡市仏生寺の里山風景)

(あとがき)

小町伝説は日本中の各地に存在します。
小野という名前もつくところが多くあり、そこには何故か小町にまつわる話が残されています。
そして年取っても絶世の美女という設定は変わりません。

しかし、ここに残されているのは同じように絶世の美女ですが、話を読み解いていくとそうではないのではないかと考えられるのです。
この話は、土浦市小野地区に残されたものと、その裏山に小町が山越えした「小野越」や小町が腰をかけた「小町腰かけ石」などの地名が残されており、北向観音のある石岡市仏生寺地区に残された話を統合しています。

少し勝手に解釈を加えていますが、話も決まった一つではないのでこのような解釈もあるとお考えください。
石岡地方の昔話 | コメント(0) | 2014/10/25 23:42

空を飛んでやってきた薬師様(昔話16)

 石岡市菖蒲沢の山間に素晴らしく美しい薬師堂があります。
これは徳一法師が筑波山を囲むように配した四面薬師の一つです。
ここに安置された薬師様について残されたお話です。

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 昔、鹿島の汲上浜で漁をしていた、正直者の漁師の網にズッシリとした手ごたえがあった。

漁師は嬉しくなって網をあげたところ、中に一寸八分の光り輝く仏像が入っていた。

これを家に持って帰り安置して祀った。

その夜、漁師の夢に瑠璃光薬師如来が現われ、「吾をこの国中が見渡せる西方の場所に連れていってくれ」 と言われた。

漁師は夢から覚めると直ぐに、この薬師様を背中に背負って西に向かって歩きだした。

しかし、仏像はどんどん重くなり、漁師の足取りも次第に重くなっていった。

すると背中の薬師様はこの様子を見かねて、それでは私が青龍大王を呼ぶので、その力を借りて空を飛んでいこうと言うと漁師はいつの間にか夜空に飛び上がっていた。

そして筑波山ふもとの山並みの続く岩山の頂に降り、薬師様はここだここだと言って後光を発したそうだ。

そして後に菖蒲沢桑柄山の地に村人が堂宇を建て筑波山不動院東光寺と名付け薬師様を安置したと言われている。

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(あとがき)

 この話は石岡市菖蒲沢地区に伝わる昔話で、ここには現在、筑波山四面薬師の一つといわれる「菖蒲沢の薬師」が祀られています。

話に出てく一寸八分の仏像は寸法として小さなものですが、当時の仏像もこの大きさの仏像が価値があると思われていたようです。

徳一法師が筑波山周辺に配した四面薬師はこの他に「小幡十三塚・山寺の薬師(北)、真壁・」椎尾の薬師(西)、新治・東城寺の薬師(南」があります。

この菖蒲沢は今は薬師古道として山道を整備し季節の移り変わりにもとても美しい場所です。
現在薬師堂の中には立派な堂々とした薬師仏像が安置されています。

また仏像が東の海から来たというのは、常陸国分寺の鐘が子生(かなじ)の海岸から引き上げられて運ばれたという伝説などとも共通するところです。
石岡地方の昔話 | コメント(0) | 2014/11/02 09:59

国分寺仁王門伝説(昔話17)

・仁王門伝説

  それは今から四百年以上も昔のことです。

 秋田から来た真面目な青年「佐助」は府中(石岡)の国分寺の薬師堂の門前で商いをしていた。

そしてある時、「コマ売りの佐助が夜更けになると、国分寺の仁王門で何かやってるぞ」といううわさが府中の商人の間ささやかれ始めた。

 佐助は、いつも仁王門左右に置かれている呵吽一対の仁王様が、カッと目を見開き睨みつけた表情の奥に何かとてつもない力を感じていた。

仁王様の身の丈はおよそ六メートル。

佐助はこの仁王門のどこかに、かつて常陸国を治めていた大掾氏の秘宝のありかが、梵字で記されていると聞いていた。

しかし、それを知っているのは、すでに滅ぼされた大掾氏と薬師堂の和尚だけだった。

 ある夜、コマ売りの佐助はこの梵字を写しているところを和尚に見つかった。
そして「あっ!」と声をあげてその場を立ち去り逃げていった。

その後、佐助の姿を見た者は誰もいない。 

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(ありし日の仁王門。現在は火事で焼けてありません)

 (あとがき)

 この国分寺跡は国の特別史跡にも指定されていますが、大掾氏の秘宝が隠されているというのも面白いです。
ただ江戸時代には笠間街道や水戸街道が交差する場所であったために馬市などが盛んに開かれ賑わったようです。

府中の街に野菜やコメなども多くが集まってきていたと思われます。

大掾氏の秘宝があったのか無かったのか、佐助はこの財宝のありかを読み取ったのか?
話がこれで終わっていますのでこの後を皆さんで推理するのも楽しいでしょう。

秋田からやってきたというのも、大掾氏を滅ぼした佐竹氏が移って行った先ですので何か関連があるかもしれません。
石岡地方の昔話 | コメント(0) | 2014/11/03 18:17

無駄骨弥兵衛(昔話18)

・無駄骨弥兵衛

 むかしむかし、府中に生活は貧しかったが、こころの真っ直ぐな弥兵衛という百姓が住んでいた。

そして人が困っていることがあると黙っていることができず、誰にでも手助けをする律義な男でした。

あるとき、近くの村に大層嘆き悲しんでいる父子がいることを聞いた弥兵衛は、すぐにその家に出掛けていき、何が困っているかその理由を聞いたのです。

最初は心を閉ざしていた父子であったが、弥兵衛のあまりにも真剣な様子にボツボツとそのわけを話しだしました。

「実は、今日の夕刻までに借金の返済ができないと首を斬られてしまいます。もうお金を用意するあてもないのでこうして泣いていたのです。」 というのであった。

驚いた弥兵衛は急いで家に飛んで帰り、それから頼れそうな親類や知人のところを駆け回って、やっとのことでお金を集めました。

そして「何とか間に合ってくれよ」と祈るような気持ちで、弥兵衛はその父子の家に駆けつけました。

しかし、その父子はすでに処刑された後だったのです。

悲しみにくれた弥兵衛は、その父と子の屍をねんごろに葬いました。

しばらくしてこの弥兵衛の話はあちこちに知れ渡りました。

それから村人達は弥兵衛のことを「無駄骨弥兵衛」というようになったとのことです。

(あとがき)

この物語は読んで少し後味の悪い印象が残ります。
話を聞いた時には宮沢賢治の「雨ニモマケズ」や太宰治の「走れメロス」などを思い浮かべますが、この物語では何を残したいのかが明確に伝わりません。
昔話ですからそれでもよいのかもしれませんが何かスッキリしない物が残ります。

これは題名になっている「無駄骨」という言葉にあるのだと思います。
人のために己の労力をいとわず何かをしようと奔走し、それが結果として達成されなかったとしても無駄にはならないはずです。

この地方に来て感じる利己主義や自分の都合でばかり物事を判断する人々いるとの思いと、この無駄骨話しもどこかでつながっているようにも感じています。
石岡地方の昔話 | コメント(2) | 2014/11/15 21:43

木間塚長者(昔話19)

・木間塚長者

 昔、尼寺ヶ原(にじがはら)の北方の北の谷というところに木間塚将監という長者が住んでいた。

長者は非常に慈悲深く、困る人を助け、また信心深く、荒廃しかけていた国分寺の再建にも尽力した。

しかし、夫婦には子供が無く悩んでおり、伽藍御堂(がらみどう)の薬師さまに毎日願掛けをし、ついに瑠璃姫という女の子を授かった。

またこの長者の近くに幸作という夫婦者が住んでおり、こちらも子供がなく清水観音に願かけして女の子を授かった。
そしてその女の子に観音様の名前をいただいて「清水」と名をつけた。

それからしばらくしたある日のこと、この長者の屋敷に強盗が押し入った。

あわや殺されそうになった長者を、この幸作という若者がわが身を犠牲にして助けたのです。

それから年が流れ、この二人の女の子は美しい娘に成長した。

そんな頃、東馬という者がよからぬ計画をめぐらし、言葉巧みに城の宝刀を騙して盗んでしまった。

責任を感じた城の家臣の数馬は、この責任は自分にあると切腹してお詫びをしようとした。

するとそこにこの木間塚長者が現れ、盗まれた宝刀を差し出した。

驚いた数馬はその宝刀が見つかった理由をたずねたところ、長者は

「うたたねをしておりましたら、その夢の中で”麓にいる鳥を射よ”とお告げがありました。
そこでそのお告げにしたがって、麓の鳥を弓で射ると、鳥が落ちた場所にこの宝刀があったのでございます。

と述べたのでした。

命拾いをした数馬は大層喜んで、感謝の気持ちを伝え、何とか恩返しをしたいものだと心に留めていたのでした。

それからしばらくしたある日、木間塚長者が瑠璃姫・清水の二人の娘を連れて遊山に出かけていた時に、突然鬼が現れ、二人の娘をさらっていこうとしたのです。

この時、たまたま近くにいたこの数馬が鬼を追い払い難を逃れることができたのです。

数馬は長者から大層感謝されたのですが、また以前に助けられた宝刀の恩返しができたことを大変喜んだのでした。

そして、これも竜神社のおかげであると深く頭を下げたのです。

<あとがき>

このお話はどうも何時頃の時代か良く分からない所があります。
城についても原文は「国香の城」と出てきますが、少し意味合いがわかりにくいのでこの言葉は削除しました。
しかし江戸時代よりは古く、戦国時代前の室町時代頃だとすると、国分寺の境内そばに「伽藍御堂」が国分寺の塔などの伽藍を指すのか、現在200mほど東にあるガラミドウ墓地のあたりにあったと思われる伽藍御堂を指すのかがわからない。

またこの話にはその他にも「清水神社」「竜神社」という名前が出てくるが、この場所も良く分からない。
なお、尼寺ヶ原は国分尼寺のあった地区を指し、木の谷はその先の山王川のくぼんだ谷に近い場所にあります。

いつかもう少し内容を検証してみたいとも思います。

(追記)「竜神社」は村上の佐志能神社が昔村上神社と呼ばれ、また別に「竜神社」とも呼ばれたそうです。(2014.12.30)
石岡地方の昔話 | コメント(0) | 2014/11/23 13:49
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