有明の松(昔話26)

 旧八郷地区の瓦会から恋瀬の方に少し下って行ったところに「有明の松」という史跡がある。
この昔話で取り上げるのが良いかはわからない。
一般には史実とされているこの松にまつわる話が昔から言い伝えられている。

 時は皇室が南北に分かれて約60年にわたって争った南北朝時代の後半である。
南朝方は劣勢で、小田城を追われた小田五郎藤綱と若犬丸は最後の攻防にこの裏手の難台山(553m)の山城(砦)に籠り、最後の抵抗を続けた。


城の食糧は西側からひそかに運び上げていたため、合戦もなかなか勝負がつかず1年近くも持ちこたえていた。

しかし、この食糧ルートも敵に察知され対に城は兵糧がつき城にも火が放たれ、城兵も逃げる者もあり、いよいよ最後と覚悟を決めた城主は婦女子を城から落とすことを決め、五~六名の従者をつけて婦女子は夜中に城を抜け出した。

東側は敵が囲んでいたために、敵の手が薄かった西側の山をいったん登って道なき道を必死の思いで、血だらけになりながら山を下って行った。

そしてやっとのことで平地に下り、1本の松のところにたどりついた。
どうにか敵の姿も見えず、夜が明けるまでこの松のたもとで夜を明かしたである。

そして夜が明け、ようやく明るくなり始めた時になって、集まったこの婦女子たち一行は、この薄明かりにこれからの希望を見出したのである。

そしてこの松を「有明の松」とよび、自分たちや氏族のこれからの希望を願ったのです。


(あとがき)

この話は鎌倉時代から室町時代に変わる時代の流れで日本中が北と南に分かれて争いました。
当時の松は結構大きかったと思われ、それから700年も松がそのまま守られたかどうかはわかりません。
大正・昭和の時代にあった松は昭和41年3月7日に県指定の天然記念物となりましたが、昭和55年松くい虫のため伐採されました。

その後、前の松から松の芽を取りだして育て、新しい松が育っています。

matsu.jpg

在りし日の有明の松。

P1010002s.jpg

10年ほど前の有明の松。

(現在はまたこの後の松のようです)

後ろに見える難台山(553m)には、県指定史跡の「難台山城跡」があります。

南北朝時代(1380年)、南朝方の小山義政が難台山中に城郭を造り、足利軍と合戦(小山義政の乱)して破れ、さらに、1387年、小田五郎藤綱と義政の子・若犬丸が、再度、難台山に陣を構え(拠点であった小田城(祇園城)を追われてここに陣を構えた)、北朝足利方の上杉朝宗と合戦した山です。
8か月に及ぶ籠城、攻防の末、食糧供給の道を遮断され、食料が尽き難攻不落の要害もついに落城してしまいました。
藤綱は城を焼いて自害し、若犬丸は逃亡、小田五郎は郎党百名あまりとともに討ち死にしたと伝えられています。


関連記事
石岡地方の昔話 | コメント(0) | 2015/08/07 23:18
コメント

管理者のみに表示