残念坂(昔話24)

・残念坂                         

 府中城は現在の石岡小学校の入口に土塁が残されており、その名残を感じることができますが、三の丸、二の丸、本丸と二重の堀があるとても大きな規模のものでした。

本丸のところは山となっており、城中山と呼ばれておりました。

現在の若宮八幡宮まえを通り、染谷池袋に通じる途中に残念坂と呼ばれている坂があります。

それは、この府中城が落城したときのお話です。
正平年間(1346~1370)大掾詮国により国府の置かれていた場所に府中城が築かれ、難攻不落の城といわれ、長い間、大掾(だいじょう)平氏の城として守られてきました。

しかし、天正18年(1590)12月に佐竹義宣に攻められ、城も炎上し、ついに落城してしまいました。

大掾氏最後の城主となった清幹(きよもと)はこの時まだ18歳でした。

迫りくる敵の攻撃にもはやこれまでと最後の腹を決めた清幹は馬に飛び乗ると城を後にしたのでした。

そして宮部の坂に差し掛かった時、城の方を振り返ると今まで何代にも亘って守り継いできた城が真っ赤な炎を上げて燃えています。
清幹はこの燃えるわが城をながめて「嗚呼残念」と慨嘆したといいます。

平国香以来、約600~700年の間続いてきた坂東平氏の棟梁である大掾氏は滅んだのです。


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(府中城の土塁)

(あとがき)

 しかし、この残念坂にも、別な言い伝えも残されています。
それは、落城の際に、敵のすきをぬって、一人の武将が馬にまたがり疾風のごとくごとく脱出し、染谷池袋へ通ずる宮部地内の坂道へ落ち延びてきたが、運悪く馬の脚が泥中に入り込み、一歩も進まず、ついに追手の矢の集中射撃をうけ、「ああ、残念!」と一言いって、ついに落命したという。

どちらが本当かはわかりません。

また若宮八幡宮の裏手の坂道は、今は多くの住宅が建ち、何処が残念坂であるかは私はいまだに確認できていません。
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石岡地方の昔話 | コメント(2) | 2014/12/25 16:26
コメント
いつだって
滅ぼす側と滅ぼされる側がいるのですね。
企業の商業活動だってそうですもね。
盛者必衰、そんな中で滅びた城主が
地域に愛されていったりすると、いろんな
物語になっていくのでしょうね。
佐竹義宣、戦に長けた戦国武将は、
別な人達にとっては英雄でしょうけど、
秋田に移封された、そんな去る者としての姿も
この街の人達に見せたことでしょう。
残念坂、いいしらべです。
坂には物語がいっぱい詰まってますね。
お晩です、Romanさん、またお邪魔します。
kozoh55さん
いつもありがとうございます。
私のいる地はこんな400年以上も前に敗れた者のへの愛着が未だ残っているのかもしれません。
この話も何時から言われているのかもわかりませんが、こうして残されているのはそんな住民の思いなのでしょう。
そういえば企業だって同じだし、佐竹も秀吉の御朱印で常陸を制したけれど、家康に秋田に飛ばされた。
盛者必衰なのかもしれませんね。

こんな物語も残しておきたいと考えています。

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