空を飛んでやってきた薬師様(昔話16)

 石岡市菖蒲沢の山間に素晴らしく美しい薬師堂があります。
これは徳一法師が筑波山を囲むように配した四面薬師の一つです。
ここに安置された薬師様について残されたお話です。

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 昔、鹿島の汲上浜で漁をしていた、正直者の漁師の網にズッシリとした手ごたえがあった。

漁師は嬉しくなって網をあげたところ、中に一寸八分の光り輝く仏像が入っていた。

これを家に持って帰り安置して祀った。

その夜、漁師の夢に瑠璃光薬師如来が現われ、「吾をこの国中が見渡せる西方の場所に連れていってくれ」 と言われた。

漁師は夢から覚めると直ぐに、この薬師様を背中に背負って西に向かって歩きだした。

しかし、仏像はどんどん重くなり、漁師の足取りも次第に重くなっていった。

すると背中の薬師様はこの様子を見かねて、それでは私が青龍大王を呼ぶので、その力を借りて空を飛んでいこうと言うと漁師はいつの間にか夜空に飛び上がっていた。

そして筑波山ふもとの山並みの続く岩山の頂に降り、薬師様はここだここだと言って後光を発したそうだ。

そして後に菖蒲沢桑柄山の地に村人が堂宇を建て筑波山不動院東光寺と名付け薬師様を安置したと言われている。

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(あとがき)

 この話は石岡市菖蒲沢地区に伝わる昔話で、ここには現在、筑波山四面薬師の一つといわれる「菖蒲沢の薬師」が祀られています。

話に出てく一寸八分の仏像は寸法として小さなものですが、当時の仏像もこの大きさの仏像が価値があると思われていたようです。

徳一法師が筑波山周辺に配した四面薬師はこの他に「小幡十三塚・山寺の薬師(北)、真壁・」椎尾の薬師(西)、新治・東城寺の薬師(南」があります。

この菖蒲沢は今は薬師古道として山道を整備し季節の移り変わりにもとても美しい場所です。
現在薬師堂の中には立派な堂々とした薬師仏像が安置されています。

また仏像が東の海から来たというのは、常陸国分寺の鐘が子生(かなじ)の海岸から引き上げられて運ばれたという伝説などとも共通するところです。
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石岡地方の昔話 | コメント(0) | 2014/11/02 09:59

国分寺仁王門伝説(昔話17)

・仁王門伝説

  それは今から四百年以上も昔のことです。

 秋田から来た真面目な青年「佐助」は府中(石岡)の国分寺の薬師堂の門前で商いをしていた。

そしてある時、「コマ売りの佐助が夜更けになると、国分寺の仁王門で何かやってるぞ」といううわさが府中の商人の間ささやかれ始めた。

 佐助は、いつも仁王門左右に置かれている呵吽一対の仁王様が、カッと目を見開き睨みつけた表情の奥に何かとてつもない力を感じていた。

仁王様の身の丈はおよそ六メートル。

佐助はこの仁王門のどこかに、かつて常陸国を治めていた大掾氏の秘宝のありかが、梵字で記されていると聞いていた。

しかし、それを知っているのは、すでに滅ぼされた大掾氏と薬師堂の和尚だけだった。

 ある夜、コマ売りの佐助はこの梵字を写しているところを和尚に見つかった。
そして「あっ!」と声をあげてその場を立ち去り逃げていった。

その後、佐助の姿を見た者は誰もいない。 

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(ありし日の仁王門。現在は火事で焼けてありません)

 (あとがき)

 この国分寺跡は国の特別史跡にも指定されていますが、大掾氏の秘宝が隠されているというのも面白いです。
ただ江戸時代には笠間街道や水戸街道が交差する場所であったために馬市などが盛んに開かれ賑わったようです。

府中の街に野菜やコメなども多くが集まってきていたと思われます。

大掾氏の秘宝があったのか無かったのか、佐助はこの財宝のありかを読み取ったのか?
話がこれで終わっていますのでこの後を皆さんで推理するのも楽しいでしょう。

秋田からやってきたというのも、大掾氏を滅ぼした佐竹氏が移って行った先ですので何か関連があるかもしれません。
石岡地方の昔話 | コメント(0) | 2014/11/03 18:17

山平(石岡駅付近)

 石岡に住んではや10年。
それなのに駅すぐ近くにあるレストランなどにはほとんど行ったことが無い。

先日食べログで上位にランクされていた「山元」さんに初めてお邪魔しました。

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駅前通りから石岡プラザホテル側に少し入ったところにある日本料理屋さんという構えのお店です。
少し高そうな雰囲気もありますが・・・・・。

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中はボックス席が左右に2つずつあり、正面のテーブル席が2つとカウンター席があり、一人でしたのでカウンターに座りました。(人のいない時を見計らって写真を撮りましたが、平日でも結構混んでいました。)

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ここはお蕎麦と海鮮丼が名物のようです。

まず手始めですから海鮮丼(1000円+税)を注文しました。

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ホタテ、イクラ、ハマチ、イカ、マグロ(とろ)、キビナゴに甘エビ。

ご飯は酢飯でワサビ醤油をかけて頂きます。

とても新鮮でおいしいです。これならわざわざ銚子で海鮮丼を食べる必要もないかもしれません。
まあでも、またブリやキンメはやはり食べたくなりますが・・・・

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良いお店だと思います。
駅近くで食事を探している方は一度ご利用ください。
今度は海鮮ミニ丼と蕎麦のセットでも食べて見たいと思います。



石岡周辺 | コメント(0) | 2014/11/05 18:46

無駄骨弥兵衛(昔話18)

・無駄骨弥兵衛

 むかしむかし、府中に生活は貧しかったが、こころの真っ直ぐな弥兵衛という百姓が住んでいた。

そして人が困っていることがあると黙っていることができず、誰にでも手助けをする律義な男でした。

あるとき、近くの村に大層嘆き悲しんでいる父子がいることを聞いた弥兵衛は、すぐにその家に出掛けていき、何が困っているかその理由を聞いたのです。

最初は心を閉ざしていた父子であったが、弥兵衛のあまりにも真剣な様子にボツボツとそのわけを話しだしました。

「実は、今日の夕刻までに借金の返済ができないと首を斬られてしまいます。もうお金を用意するあてもないのでこうして泣いていたのです。」 というのであった。

驚いた弥兵衛は急いで家に飛んで帰り、それから頼れそうな親類や知人のところを駆け回って、やっとのことでお金を集めました。

そして「何とか間に合ってくれよ」と祈るような気持ちで、弥兵衛はその父子の家に駆けつけました。

しかし、その父子はすでに処刑された後だったのです。

悲しみにくれた弥兵衛は、その父と子の屍をねんごろに葬いました。

しばらくしてこの弥兵衛の話はあちこちに知れ渡りました。

それから村人達は弥兵衛のことを「無駄骨弥兵衛」というようになったとのことです。

(あとがき)

この物語は読んで少し後味の悪い印象が残ります。
話を聞いた時には宮沢賢治の「雨ニモマケズ」や太宰治の「走れメロス」などを思い浮かべますが、この物語では何を残したいのかが明確に伝わりません。
昔話ですからそれでもよいのかもしれませんが何かスッキリしない物が残ります。

これは題名になっている「無駄骨」という言葉にあるのだと思います。
人のために己の労力をいとわず何かをしようと奔走し、それが結果として達成されなかったとしても無駄にはならないはずです。

この地方に来て感じる利己主義や自分の都合でばかり物事を判断する人々いるとの思いと、この無駄骨話しもどこかでつながっているようにも感じています。
石岡地方の昔話 | コメント(2) | 2014/11/15 21:43

木間塚長者(昔話19)

・木間塚長者

 昔、尼寺ヶ原(にじがはら)の北方の北の谷というところに木間塚将監という長者が住んでいた。

長者は非常に慈悲深く、困る人を助け、また信心深く、荒廃しかけていた国分寺の再建にも尽力した。

しかし、夫婦には子供が無く悩んでおり、伽藍御堂(がらみどう)の薬師さまに毎日願掛けをし、ついに瑠璃姫という女の子を授かった。

またこの長者の近くに幸作という夫婦者が住んでおり、こちらも子供がなく清水観音に願かけして女の子を授かった。
そしてその女の子に観音様の名前をいただいて「清水」と名をつけた。

それからしばらくしたある日のこと、この長者の屋敷に強盗が押し入った。

あわや殺されそうになった長者を、この幸作という若者がわが身を犠牲にして助けたのです。

それから年が流れ、この二人の女の子は美しい娘に成長した。

そんな頃、東馬という者がよからぬ計画をめぐらし、言葉巧みに城の宝刀を騙して盗んでしまった。

責任を感じた城の家臣の数馬は、この責任は自分にあると切腹してお詫びをしようとした。

するとそこにこの木間塚長者が現れ、盗まれた宝刀を差し出した。

驚いた数馬はその宝刀が見つかった理由をたずねたところ、長者は

「うたたねをしておりましたら、その夢の中で”麓にいる鳥を射よ”とお告げがありました。
そこでそのお告げにしたがって、麓の鳥を弓で射ると、鳥が落ちた場所にこの宝刀があったのでございます。

と述べたのでした。

命拾いをした数馬は大層喜んで、感謝の気持ちを伝え、何とか恩返しをしたいものだと心に留めていたのでした。

それからしばらくしたある日、木間塚長者が瑠璃姫・清水の二人の娘を連れて遊山に出かけていた時に、突然鬼が現れ、二人の娘をさらっていこうとしたのです。

この時、たまたま近くにいたこの数馬が鬼を追い払い難を逃れることができたのです。

数馬は長者から大層感謝されたのですが、また以前に助けられた宝刀の恩返しができたことを大変喜んだのでした。

そして、これも竜神社のおかげであると深く頭を下げたのです。

<あとがき>

このお話はどうも何時頃の時代か良く分からない所があります。
城についても原文は「国香の城」と出てきますが、少し意味合いがわかりにくいのでこの言葉は削除しました。
しかし江戸時代よりは古く、戦国時代前の室町時代頃だとすると、国分寺の境内そばに「伽藍御堂」が国分寺の塔などの伽藍を指すのか、現在200mほど東にあるガラミドウ墓地のあたりにあったと思われる伽藍御堂を指すのかがわからない。

またこの話にはその他にも「清水神社」「竜神社」という名前が出てくるが、この場所も良く分からない。
なお、尼寺ヶ原は国分尼寺のあった地区を指し、木の谷はその先の山王川のくぼんだ谷に近い場所にあります。

いつかもう少し内容を検証してみたいとも思います。

(追記)「竜神社」は村上の佐志能神社が昔村上神社と呼ばれ、また別に「竜神社」とも呼ばれたそうです。(2014.12.30)
石岡地方の昔話 | コメント(0) | 2014/11/23 13:49

清涼寺の狢(むじな)(昔話20)

・清涼寺の狢(むじな)

 石岡市内の清涼寺に江戸時代末期頃に一匹の古狢が棲んでいた。

この古狢は昼間は寺の境内の竹藪の中にある池の脇にある穴の中にいて、夜になると寺の大きな杉の木に登って、お月様に化けたり、通る人に砂をかけたりするいたずら好きであった。

また、寺の南の長屋に鴉の鳴きまねが上手な「鴉の長さん」と呼ばれる男が住んでいた。
ある晩に、この長さんの雨戸をトントンと叩く者があり、長さんが雨戸を開けてみても誰もいなかった。

そんなことが幾晩も続き、あまりにしつこいのでこれは寺に棲む狢の仕業だと思い、長さんは黙っていることに決めた。

いたずら好きの古狢は、いつものように長さんの戸を叩いたが、長さんの返事がないため面白くなくなりそのまま帰っていった。

それから何日かたったある日に、近所の子供たちがこの寺の狢退治をしようと相談をして集まった。

子供たちは狢の穴にとうがらしに火をつけて煙を狢の棲む穴に流し込んだ。
そして狢が出てきたら懲らしめてやろうと待ち構えていた。

すると寺の本堂の方から大きな声で

「こらー、お前たち。本堂が煙で一杯じゃ。涙とくさみがでてかなわん」

とこわい顔をした方丈さんが現れたので、子供たちは驚いて一斉に逃げ出した。

でもそれ以来、寺の古狢は姿を現さなくなったという。

その時の方丈さんこそ、狢が最後の化け姿であったのではないかと言い伝えられています。



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(あとがき)

狢(むじな)が出てくる話はいくつか残されおり、昔はタヌキと狢はあまり区別されていないようです。
地方によってタヌキやアナグマなどを狢と呼んだりしていますが、人を騙すものを狢と呼んでいるのかもしれません。
狢が木に登って月に化けるというのも何処かかわいらしさがありますね。

夜暗い時に、月明かりが狢に見えたりしたのかもしれません。
清涼寺は石岡に佐竹氏が治めていた時に佐竹家の菩提寺になりました。
そして秋田に移る時に秋田にも清涼寺が移りましたが、こちらにも残されて現在まで続いている寺です。

この話は鴉の鳴きまねが上手な「鴉の長さん」がでてきますが、何故か同じ狢とはいえ子供たちの話との関連性は良くわかりません。違った話が2つつなげたように並んでいます。
私はこの愛嬌のある狢が少し可哀そうになりました。
皆さんはいかがですか。

石岡地方の昔話 | コメント(0) | 2014/11/29 22:07
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