化け鼠と12匹の猫(昔話4)

 昔、今の石岡が常陸の都であった頃、筑波山は多くの民衆の信仰の山でした。
そしてこの筑波山の寺に御参りする人がたくさんおりました。

そんな頃、ある一人の汚らしい身なりをした旅の僧侶が府中街道と呼ばれた道を山から府中(今の石岡)を目指して下りてまいりました。

山の峠(風返峠)を越える頃からあたりは薄暗くなり始めておりました。

ここから府中の街まではまだ大分あるので、旅の僧侶はどこかで今宵の宿を探さねばなるまいと、夕暮れの坂道の途中で野良仕事をしていた村人を見つけて声をかけました。

坊主:見ての通りの諸国行脚をしている旅の坊主であるが、このあたりに泊めてくれる寺などは無いかな

里人:寺はこの先にあるが、もう長いこと無住で荒れ果てております。ここを少し下った先には小幡の街があり、旅籠もありますので、そちらに泊まったら良かろう。

坊主:そのような寺こそ、修行の身のわしが泊まるのにもってこいじゃ

村人に礼を言ってその山寺に泊まることにしました。

たしかに村人がいうように寺は荒れ果てておりましたが、周りは木々に覆われ、静寂な雰囲気の比較的大きな寺であり雨露をしのぐには十分でした。

僧侶は寺に入るとまず、務めのお経を唱え、そして広間に横になり眠ろうと目を閉じてしばらくしてから、自分の所に近づいてくるものの気配を感じました。

僧侶がじっとしておりますと、それは枕元に近づき静かな声でしゃべりはじめました。

「私はこの寺に住む猫でございます。
この寺にはそれは大きな化け物の大ネズミが住んでおります。
そして、このネズミは人を食い殺したりの悪さをしてどうしようもありません。
すでに私の仲間なども何匹か殺されてしまいました。
私もネズミの言うことをきかないと殺されてしまいます。

私一匹ではとても敵いません。
どうかお坊様の力で、他に11匹の猫を集めてきていただきたいのです。
そして私共にお坊様の法力をお授け下さい。
そうすれば12匹の猫でこの化けネズミを退治したいと思います。
どうかお願いします。」

坊主が目を開けるとそこには大きな猫が一匹ちょこんと座っていました。
あまり話が真剣であったので坊主も頷きますと猫はそっと戻っていってしまいました。

そこで坊主は翌日、近くから大きな猫を11匹集め、寺に連れて戻りました。
そして夜になるとまた昨日の猫が現れたので、坊主はすべての(12匹の)猫を並べてお経を唱えました。

猫は親分の猫にしたがって静かに寺の奥の方に消えて行きました。

すると、夜中になり、天井裏や壁の向こうからものすごい大きなうなり声やドタンバタンの大音響が響き渡りました。

これがしばらく続いたのですがやがて辺りは静かになりました。

朝になって見てみると、お寺の中にそれはそれは大きな一匹のネズミと12匹の猫が死んでいました。

僧侶は12匹の猫と1匹のネズミを丁寧に葬って塚を築いたのでした。

このためこの地域を十三塚と呼ぶようになったといわれています。

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(あとがき)

この話は旧八郷地区の果樹園の里と知られた十三塚に伝わるお話です。地元では十三塚の名前の由来を伝えるものとして伝わっています。
ここは万葉の頃の府中街道にあたり、筑波山に徳一法師が中禅寺を建立し、それを取り囲むように配置した四面薬師の一つである山寺(北面薬師)があった場所です。
そのため、現地を訪れ、果樹園の里に吹く優しい風を受けながらこの話を思い出すと、この土地に昔から根付いた話としてとても強い印象を与えてくれます。
伝説を生む地というのはこのような場所なのかもしれないと思えてきます。
十三塚という地名は全国各地にあります。その多くの場所でその名前の謂れが残されています。
その多くは戦で死んだ武士であったり、川でおぼれた子供であったり、戦いに負けた側を支援し殺された地元の名主たちであったりした人びとの墓とされるものが多いようです。
古代の丸い古墳がたくさん集まっているようなところに、そののちに地元に残る悲しい話が加わってお話として残っているのかもしれません。
ここの化け鼠を退治した勇敢な猫たちはどのような話から来たものでしょうか。
昔からネズミは穀物などを食い荒らす敵で、猫はその逆だったのでしょうか。
全国各地に養蚕が盛んになると猫を神様として祀るところが出てきました。
このような事柄も関係しているのかもしれません。
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石岡地方の昔話 | コメント(2) | 2014/09/01 19:17

婆ヶ峰と爺ヶ峰(昔話5)

■婆ヶ峰(ばあがみね)・爺ヶ峰(じじがみね) 

むかしむかしのことです。
石岡が常陸府中(ひたちふちゅう)と呼ばれていた頃、筑波山には多くの巡礼の人びとが登っておりました。

そんなある日の夕方です。
巡礼姿の老夫婦が常陸府中側から山道を登り、筑波の尾根にある峠道を急ぎ足で歩いておりました。

もう日が暮れかけており、暗くならないうちに筑波の宿に到着したいと、疲れた足を引きずりながら二人はお互いを励ましあいながら先を急いでいました。

するとそこに追いはぎが現われたのです。

お爺さんは、荷物やお金をお婆さんに持たせて、先に宿に行くように話し、持っていた杖で追いはぎに向かっていきました。
しかし、乱暴ものの追いはぎは大男でとても強く、とうとうお爺さんは殺されてしまいました。

お婆さんは先に逃げていたのですが、お爺さんがお金を持っていないと知った追いはぎが、お婆さんの後を追いかけてきました。

そして、とうとう一つ先の峰のあたりでつかまり、お婆さんも殺されてしまったのです。

 よく朝になって、麓の村人が二人の変わり果てた姿を発見し、皆で泣いて亡くなった山の近くに二人をねんごろに埋葬して石仏を作り、毎年お彼岸に供養をするようになりました。

そして、村人達はこの場所を、お婆さんとお爺さんの峰ということで、「婆ヶ峰(ばあがみね)・爺ヶ峰(じじがみね)」と呼ぶようになったそうです。

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 さて、それからずいぶんたった頃です。

この供養のために立てられた石仏に、子供がなかなか授からずに困っている人がお参りすると、子供が授かるといううわさが広がっていきました。

「この石仏をお借りしてお腹にだいて寝ると子宝に恵まれる。病気の人は元気になる。」

そんな話がいつの間にか広がっっていったのです。

そしてそれから子供に恵まれない多くの人がここを訪れて、子宝に恵まれ、またお礼に訪れるようになりました。

今では筑波山をバックに大きな「子授け地蔵」が立っています。

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(あとがき)

 筑波山のつつじヶ丘の下の風返峠から東筑波スカイラインを少し南側に下ったところに「媼ヶ峰駐車場」があり、その奥に筑波山の女体山・男体山をバックに子授け地蔵が建てられています。

山に架かる雲の動きや朝日に輝く山を見ることができる素晴らしい場所です。

また、冬には、日が沈むころに遠く富士山がきれいなシルエットで浮かび上がります。

このような悲しい昔話がありますが、歩いて筑波詣に行く途中には実際にこのような事もあったのかもしれません。
子授け地蔵は各地にありますが、ここは特にそのパワーを感じる場所だと思います。

今でも赤い鳥居をくぐったお宮の前には、たくさんのお札が置かれ、お礼のぬいぐるみや人形などが置かれています。

姥ヶ峰は古来から筑波山の名所のひとつとして「筑波山恋明書」に”姥かみね”と記載されており、昔から信仰の領域であったと思われます。
石岡地方の昔話 | コメント(0) | 2014/09/02 22:00

常陸国分寺の雄鐘と雌鐘伝説(昔話6)

「常陸国分寺の雄鐘・雌鐘の伝説」

石岡でもっとも有名な伝説はこの国分寺の鐘伝説でしょう。

石岡駅は現在駅舎の工事中ですが、駅の下りホームに壁画が描かれているのを駅に来た人は見たことがあるのではないでしょうか。

まず、今回はこの壁画と説明文をそのまま掲載させていただきます。(作画・村岡 将・・・石岡駅壁画)

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昔むかしのある晴れた日。子生の浦(こなじのうら=旭村)の海に、二口の重い釣鐘がポッカリと浮かんだ。

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見つけた漁師は驚き「そうだ。龍宮の女神が、府中の国分寺に寄進なさるに違いない」と、大勢のなかまを呼び集めて釣鐘を引き上げた。これは随分と骨が折れた。

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 釣鐘を運ぶのも大変だった。何日もかかった。田崎(旭村)の橋のそばで突然車の心棒が折れた。それから、この橋を「こみ折れ橋」と云うようになったそうだ。

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やっとのことで府中の国分寺に着き、めでたく雄鐘と雌鐘が鐘楼に吊り下げられた。人々は二鐘がそろったお寺の見事さを誉めたたえた。

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 この国分寺は奈良時代に聖武天皇が全国に建てた寺の一つだ。十年もかかって造り上げられた大きくて立派な建物だった。

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ところが、怪力の大泥棒がこの釣鐘に目を付けていた。ある夜のこと、雌鐘をはずしてとうとう盗んでしまった。

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大泥棒は雌鐘を背負って、高浜街道をひたすら走り、霞ヶ浦の岸にたどり着いた。ここまで来れば安心と舟に乗せた。

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沖に舟をこぎ出すと空はみるみる曇り、雨に風、雷も波も激しくなってきた。そのとき突然「国分寺、雄鐘恋しやボーン」と雌鐘が鳴った。

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これには大泥棒も驚きあわてた。「きっと、釣鐘を盗んだ罰だ」大泥棒は雌鐘を三叉沖めがけてほうりこんでしまった。

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それ以来、国分寺の雄鐘と雌鐘はお互いに引き合い、沖の雌鐘は明けと暮れに「国分寺、雄鐘恋しやボーン」と鳴ったという。

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そして、沖の雌鐘は毎日米一粒分だけ岸に寄って来るが、波やしけのため引き戻されて、今だに岸に着けないでいるそうだ。

     (石岡市史[伝説]より抜粋/作画・村岡 将)

(あとがき)

常陸国国府に建てられた国分寺には雌雄2つの鐘があった。
その一つが盗まれてしまった。

盗んだのは力持ちと言うことで弁慶などと言う話もあるが、盗まれたのは江戸時代初期(寛永16年・1639年頃)に今の恋瀬川の工事のために、この鐘を一つ時を知らせるために工事現場に持ちだしていた。
これが盗まれてしまったという。

最初の頃の子生(こなじ)から鐘を運んだことや、地名として七日ケ原、八日ケ堤、こみ折れ橋などの地名がこの伝説によると鉾田の地方で伝わっている。

この鐘についてはかすみがうら市にはこの鐘を作ったとの伝説あり、何処で制作されたものかはわかりません。

また鐘が沈んだとされる三つ叉沖は霞ヶ浦が土浦入りと高浜入りに分かれる場所で、かすみがうら市の歩崎の沖合になります。流れが急で渦を巻いたりして舟は難所なようです。
この辺りにもこの鐘伝説が伝わっています。

上の話には出てこないが、江戸時代に水戸藩領であった井関の方には、この沈んだ鐘を湖から引き上げようと水戸光圀(黄門)が女性の髪の毛をたくさん束ねて撚った綱で引き揚げさせたが途中で切れたとの話が伝わっています。

話はいろいろなパターンがありそれぞれに面白いものである。

残っていたもう一つの鐘も火事で焼け、小さく鋳込みなおして寺の関係者に配ったと言われています。

いずれにせよ地元に伝わる話として大切に理解しておきたいと思います。
石岡地方の昔話 | コメント(2) | 2014/09/03 23:06

鈴ヶ池と片目の魚(昔話7)

■鈴ヶ池と片目の魚                         

 昔、俗称、城中山(現在の石岡小学校の西)に鈴ヶ池と呼ぶ池がありました。
そこには府中落城にまつわる悲しい物語が伝えられています。

 時は、天正18年(1590年)12月22日。

名実ともに堅城不落を誇り、連綿24代続いた大掾(だいじょう)氏も左近太夫浄幹(きよもと)の代に武運つたなく佐竹義宣のために敗北した。

戦死した父の後、家督を継いだ浄幹も戦いに明け暮れ、この時まだ18歳であった。

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(石岡小学校入口にある府中城の土塁跡)

この天正18年春に豊臣秀吉が天下統一の最後の仕上げとして、小田原城の北条氏を攻めを滅亡させた。

そして、小田原攻めに参戦しなかった大掾氏は秀吉から常陸国を任された佐竹義宣によって滅ぼされる運命にあったのである。

浄幹の妻は小川の園部城主の息女鈴姫といい、容姿美しい方であった。

佐竹義宣は、難攻不落と言われた府中城攻略のため、まず園部城(小川)を打ち落とし、その園部の軍勢をもって府中へ、府中へと攻め寄せてきた。

府中城の周りには出城や砦を多く持っていたが、これも次々に陥落し、城に残っていた浄幹のもとに砂塵をけってはせ参ずる注進は、いずれも味方の敗北のみであった。

浄幹の無念やるかたなく、鈴姫の悲嘆はいかばかりであったろう。

見方と思っていた園部氏も今は敵。

敵が目の前まで迫り、いよいよ観念のほぞを固めた城主浄幹はついに部下に命じて館に火をかけさせた。

歴史的名城、府中城もたちまちのうちに、火の海と化し、黒煙と火の粉は勢いよく大空に舞い、突然、夢破られた夜鴉の群れは塒(ねぐら)を捨てて戸惑い舞い狂った。

 この燃えさかる炎の中、浄幹はついに乱心し、づかづかと鈴姫に迫り

「そなたの父、園部も今日は敵だ。そちも、また、わが妻でないぞ。思い知れ」

とばかり、手にする刀で片目をつきさした。

そして、燃えさかる火中に浄幹は身を投じ、城と運命をともにした。

 片目に死の烙印を押された鈴姫は、焼け落ちる棟木の火明に、身悶えの姿も哀れに城中の池へ身を投じたのであった。

なんと悲しい最後であったか。
かくして名城石岡城は亡びたのである。

それから後、この池にすむ魚は、不思議なことに片目で、悲劇的な鈴姫の恨みの表われだと語りつがれている。


(あとがき)

この鈴ヶ池は戦後まで残されていたが、埋め立てられ宅地化され、残念ながら今では当時の面影をしのぶことができない。

この辺りは天然の内堀となり、この池も当時は城内の湧き水として貴重な池であったと思われる。

関東を切り開き、基礎を築いてきた桓武平氏のいわば統領である常陸大掾氏であるが、戦国時代の全国統一の波に翻弄され、その全てを失った。

焼き尽くされた後には、やはりいろいろな怨念が残るものなのであろう。

大変インパクトの強い話であるが、今ではこの鈴ヶ池を探しても跡かたもないのはさびしいものである。

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(写真集 いしおか 昭和の肖像 1994年発行 より)
石岡地方の昔話 | コメント(0) | 2014/09/05 10:17

護身(ごみ)地蔵(昔話8)

護身地蔵

 国道6号線の高浜街道との交差点「貝地(かいじ)」近くに「護身地蔵(ごみじぞう)」がある。

この地蔵尊はこの国道ができるまでは高浜街道沿いの所にあった。

この地蔵はお参りすると風邪が治るとの噂で参拝客がやってくる。

そして願いが叶うとと、わらの納豆つっこに、やさいのくずなどのごみを詰めて奉納する。

これは塵芥(ごみ)と護身(ごみ)のことばが相通じるところからきているのだという。

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ここには次のような昔話が伝わっている。

戦国時代に、三村や舟塚山付近の戦いのとき、一人の武士が追手に追われてこの地蔵尊へ逃げ込んできた。

しかし、身体はすでに傷だらけで、もう歩く力もほとんどない。

もう逃げるところはなく、これまでと武士は覚悟を決めた。

その時、突風が起こり、砂塵を巻き上げ、追手の視界を遮った。

武士もやっとの事で目を開けると、すぐそばに一人の老婆が立っており、武士を近くの塵芥の山の中へ隠した。

突風がやみ追手が目を凝らしたが武士はどこにも見えなくなっていた。

追手は老婆に「ここへ、武士が来なかったか」と訊ねた。

老婆は慌てる風もなく「ここには誰も来ておりません。」と平然とこたえた。

その様子に追手も疑うことなくあきらめて行ってしまった。

追手が見えなくなり、武士が塵芥の山から這いでるともう老婆の姿はどこにもなかった。

一命を救われた武士は、この老婆はこの祠の神様に違いないと涙を流して感謝した。

そして、数年後に再びこの地を訪れ、感謝の石地蔵を寄進した。

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(あとがき)

国府公民館のすぐ脇であるがこの地蔵尊はこの国道(バイパス)ができるまでは高浜街道沿いの所にあった。
また近くには平景清が産湯を浸かったという室ヶ井の湧き水もあったが、国道工事で昔の姿を考えるのは難しい。

昭和4年の石岡の大火でこの通り(高浜街道)沿いも火が走り、この地蔵堂も焼けた。
その後建てなおしたが、昭和30年に国道6号線のバイパス(今の6号)が完成し、道路にかかったために現在地に移された。

この話は単なる塵芥(ごみ)と護身(ごみ)の言葉の遊びのように思えなくもないが、同じような話は全国各地に残っている。

またこれに似た話が龍ヶ崎の金龍寺の「藁干観音」に伝わっています。

この話を要約すると
「昔、新田義貞が追っ手に追われてこの地に逃げ込んできた。
そして、農家が干していた藁束の前に娘が現れて、義貞をわらの中に隠してくれた。
敵は藁の中に隠れていることに気がつかずに行ってしまった。
そして藁からでてきたところ娘の姿もなく、これこそ観音様の化身に違いないと感謝して、この金龍寺に観音像を寄進して、厚く祀ったということです。」

この金龍寺は、元は群馬県太田市の寺で新田義貞による開祖が伝えられていますので武士が新田義貞になっていてもおかしくはありません。

このように各地方の昔話などを比較してみるというのも想像の輪が広がるようで楽しいものです。


石岡地方の昔話 | コメント(0) | 2014/09/06 16:10

子は清水(昔話9)

■子は清水                         

 昔から、関東灘とよばれる酒の名産地石岡市村上は、「村上千軒」といわれるほど大きな村であった。


頃は奈良朝の昔、この村に貧しい親子が住んでいた。

息子は大変親孝行で、毎日山に出かけては薪をとり、それを府中の町に売りに行ってほそぼそと生活していた。

そして、その売れた銭で年老いて病気がちの父親に少しばかりの好きな酒を買って帰るのが日課であった。

 そんなある日、いつものように息子は、府中の町へ薪を売りに行ったが、その日は少しも売れなかった。

売れない薪を背負って、しかたなくそのまま家路についた。

村上の入口あたりに来ると、どこからか香しい匂いが漂ってきた。

その香りの源をたどっていくと、木立のなかに清水がこんこんと湧き出ていた。

息子は喜んで、この清水を腰の瓢につめて持ちかえり、父に飲ませると、父はこれは上等の酒(諸白)だと大喜び。

 翌日息子は、あまりの不思議さに、昨日の湧き水の場所に出かけて飲んでみると、それはただの清水であった。

それ以来、毎日この清水を父に飲ませると、病気がちだった父も元気になって、二人とも幸せな日々を送ることができたという。

そのことから、父親が飲むと酒の味がして、子どもが飲むと水の味がしたので、この清水を「親は諸白、子は清水」とよぶようになった。

この噂は噂を呼び四方八方へ知れ渡った。

やがて、この話が、天子様のお耳にふれて「関東養老の泉」と命名された。

これは、美濃の孝子の奇跡で、年号を改められた(西暦717年)という「養老の滝の伝説」に似た美談であるからだというのである

 この「親が飲めば諸白、子が飲めば清水」という養老孝子伝説は、古くからこの地方に伝わっており、次のような和歌が詠まれている。

 なにし負う 鄙の府の 子は清水
      汲みてや人の 夏や忘れん
 旅人の 立ちどまれてや 夏蔭は
      子は清水とて 先ず掬うらん

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(あとがき)

美濃の養老の滝伝説がこの地にも伝わった話で、親を大切にする孝行思想と重なっている。

これらの話の残るところは湧き水が豊かで、酒造りに適していた場所であったはずであり、中央にとっても大切な場所であったと思われる。

竜神山の麓の村上は昔多くの人が住んでいた。

竜神山からの湧き水やこのような清水は大切なものであったと考えられる。

今はこの清水の場所は竹林となっており、水のあったと思われる場所が少しくぼ地となっているのみで、水はない。
場所は柿岡道の通りのすぐ左側に看板が立てられている。

ただし、話としてはかなり古いものであり、どのように話が伝えられ、残されてきたのかを大切にしていかなければならない貴重な昔話である。
石岡地方の昔話 | コメント(0) | 2014/09/08 05:32

爪書き阿弥陀(昔話10)

・爪書き阿弥陀

高浜は霞ヶ浦が大きな内海だった頃から昭和初期までの江戸までの物資輸送が水上交通としての船が使われている頃まで常陸国国府の重要な港町でした。

大和朝廷からやってきた国司たちはまずこの港から船で一の宮である鹿島神宮に参拝に行くのが習わしでした。
 
この高浜の町並みの中ほどに西光寺の阿弥陀堂(地元では西の観音という)が建っています。

お堂の中には観音像とともに、1mくらいの自然石が安置されています。

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この石には昔から伝えられている話があります。

それは、昔、親鸞上人がここから鹿島神宮に参拝のために、ここから舟に乗ろうとこの里にやってきました。

そこに腫れ物で苦しんでいる一人の男がいました。

その様子を見て、上人は気の毒に思って「その苦痛を治してあげよう」と声をかけました。

しかし、男は頑固者で「放っておけ、俺は天命を待つばかりだ。
汝がごときにこの苦痛が治せるはずがない」と最初は聞き入れませんでした。

上人は静かに念仏を唱えながら、その男の身体をなぜはじめました。

すると不思議なことに痛みがみるみる引き、腫れ物もひいてきたので、男は驚いて、寝床より起き上がり、心より上人にわび、小麦の焼いたものを勧めたといいます。

やがて上人が西浦から船に乗るために浦の岸辺にいくと、その男がやってきて「お蔭様で、現在の苦痛は治りましたが、未来の苦痛も取り除いて下さい」と懇願しました。

すると上人は「極楽往生を願うなら、常に念仏を唱えることだ。
また、汝の家の庭にある石は阿弥陀如来が宿っているから、今後はそれを信心するがよい」と言って船に乗り込んでいってしまいました。

家に帰って男は庭の石を見てみると、そこには如来の尊像が浮彫りのように現れていたので大いに驚き、男はここに一堂を建てて、自ら「常願房」と称して上人に弟子入りしたのです。

このため、この阿弥陀堂は「爪書き阿弥陀(如来)」として親しまれているのです。

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(阿弥陀如来像が浮き彫りになった石板)

(あとがき)

親鸞聖人は越後に流罪となった後、その罪を許されてからも京には戻らず主に常陸国での布教につとめた。
稲田(現笠間市)の草庵で「教行信証」を表したと言われている。
その間、書物や仏教の経典を読むために鹿島をたびたび訪れたと言われている。
高浜から舟で鹿島に渡ったことも何回もあったのだと思われる。
この爪書き阿弥陀の話以外にもこの地方には親鸞聖人の逸話が数多く残されています。

小美玉市や鉾田市の鹿島への陸上ルートにも多くの話が残されており、当時は両方のルートが使われていたものと考えられます。
石岡地方の昔話 | コメント(0) | 2014/09/11 22:00

三村落城秘話(昔話11)

■三村落城秘話                         

 戦国時代はここ常陸府中でもこの地に綿々と続いてきた平氏の名門大掾氏も多くの敵に囲まれる状態に陥っていた。

室町幕府も天正元年(1573)に15代将軍足利義昭が京を追放されてその幕を閉じた。

その同じ年に大掾氏も府中を取り囲むように出城や砦を設け、そこに兄弟や腹心の家臣を配し、周りからの敵と対峙していた。

府中(石岡)から高浜の川を渡った高台には三村城(今の三村小学校の場所)があり、南からの天敵である小田氏に対する防御を固めていた。
そこの城主は府中城の城主大掾(平)貞国の弟である大掾(平)常春であった。

 天正元年(1573)二月、府中の城主、大掾(平)貞国(常春の兄)は、小川の城主(園部)を攻めようとしていた。
そして三村の城主、常春も兄に加勢のため三村城の本丸に集まっていた。

その時、城の北方の入江で、すさまじい物音がするので、何事かと城兵が駆けつけてみると、大鷲(わし)と大鰻(うなぎ)がものすごい争いをしていた。

大鷲は水中の大鰻をさらっていこうと空より舞い降りてするどい爪で攻撃し、一方大鰻は、そうはさせじと必死になって大鷲の首に体を巻きつけて締め上げていた。

大鷲は、それをふりほどこうとおおきな翼をばたつかせ、水しぶきが大きく飛び散り、血が大きな渦巻きとなって辺りを渦巻いていた。

やがて、鷲も鰻も疲れ果て、それを城の飯田七郎左衛門という兵士が撃ち殺し、城に持って帰った。

鰻は体長五尺近くもあり、胴回りも一尺余りもあったという。 また、その鰻は耳も歯も持っていた。

三村城で兵士たちは、出陣前にふしぎなことと思って、なにか不吉な予感もしていたが、小川城(園部)を攻めるために船で出陣したのである。

しかし、この不吉な予感は的中してしまうこととなった。

小川勢に常陸国統一を狙う佐竹氏が見方にはいったため、大掾、三村勢は奮戦したが大敗してしまった。

さらに悪いことに、城が手薄なのを見て取った小田天庵(つくば市小田)が千人の兵を率いて三村へ攻め入った。

三村軍は万策つき、常春は四人の家来をつれて城から落ちのびたが、城のふもとの田に馬の足をとられ落馬してしまった。

ここぞとばかり小田勢は一気に常春の首をねらって攻めてきた。

この時である、常春寺の上空にものすごい稲妻が走り、耳を覆いたくなるような雷鳴がとどろいた。

追手は、体がすくみ、目もくらんでしまった。

常春寺
(三村城の麓にある常春寺(じょうしゅんじ))

常春はこの間に、「今日を限りに」と叫び、自害したのである。若干25歳の若さであった。

その後、常春公は高久保に埋葬され、五輪塔が建てられた。

そこには、椿の木が茂り、いまではひっそりとしている。

また、大鷲と大鰻との亡骸が葬られた場所には鷲塚、鰻塚の地名が残った。

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(三村常春(つねはる)公の五輪塔と椿の木)


(あとがき)

三村城主常春公の墓(五輪塔)は、あまりにもひっそりと立っていた。
案内板もなく、近くの家の方に聞いてやっと分かった。
常春寺より東側へ田んぼの中の道を真っ直ぐ進み、突き当たりを少し左に行ってすぐに右に登ると常磐線の線路の上を渡る。
そのまま線路を越えて進むと左右に民家が1軒づつある。
右側の民家の先を右に下る道があり、この苔むした細い道を下ったところにひっそりと佇んでいた(下りる道は車は通れないと思ったほうが良い)今は椿の木が大きくなっていた。
ここは四百数十年の間、そのままの姿で、続いているのではないだろうか? 
流れる時間がとてもゆっくりとしているように思われた。

この話は常春寺に伝わる話であるようだ。わずかな期間ではあったがこの地で起こった出来事がこうして伝えられていたのも不思議な気がした。

鷲塚、鰻塚という塚も、常磐鉄道の建設工事で大量の土砂を使用するために削られ、その形は今は無い。
しかし中から石棺などが出土し、古墳であったことが判明した。
石岡地方の昔話 | コメント(0) | 2014/09/20 19:43
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