石岡地方の昔話
茨城県石岡市周辺に伝わる昔話を集めて紹介しています。順次追加していきます。
(1) 柏原池の美少女
(2) 茨城童子(竜神山の鬼)
(3) 蛇の子を生んだ奴賀姫(ぬかひめ)
(4) 化け鼠と12匹の猫
(5) 婆ヶ峰と爺ヶ峰
(6) 常陸国分寺の雄鐘・雌鐘の伝説
(7) 鈴ヶ池と片目の魚
(8) 護身(ごみ)地蔵
(9) 子は清水
(10) 爪書き阿弥陀
(11) 三村落城秘話
(12) 国分尼寺の黄金伝説
(13) 吉生と峰寺山
(14) 仏生寺と北向観音
(15) 小町伝説と北向観音
(16) 空を飛んでやってきた薬師様
(17) 国分寺仁王門伝説
(18) 無駄骨弥兵衛
(19) 木間塚長者
(20) 清涼寺の狢(むじな)
(21) 木比提(きびさげ)狐の恩返し
(22) 新池の狐
(23) ゴボゴボ池
(24) 残念坂
(25) 天狗になった長楽寺
(26) 有明の松
(27) 縄とき地蔵
(28) 野々井と大蛇
(1) 柏原池の美少女
(2) 茨城童子(竜神山の鬼)
(3) 蛇の子を生んだ奴賀姫(ぬかひめ)
(4) 化け鼠と12匹の猫
(5) 婆ヶ峰と爺ヶ峰
(6) 常陸国分寺の雄鐘・雌鐘の伝説
(7) 鈴ヶ池と片目の魚
(8) 護身(ごみ)地蔵
(9) 子は清水
(10) 爪書き阿弥陀
(11) 三村落城秘話
(12) 国分尼寺の黄金伝説
(13) 吉生と峰寺山
(14) 仏生寺と北向観音
(15) 小町伝説と北向観音
(16) 空を飛んでやってきた薬師様
(17) 国分寺仁王門伝説
(18) 無駄骨弥兵衛
(19) 木間塚長者
(20) 清涼寺の狢(むじな)
(21) 木比提(きびさげ)狐の恩返し
(22) 新池の狐
(23) ゴボゴボ池
(24) 残念坂
(25) 天狗になった長楽寺
(26) 有明の松
(27) 縄とき地蔵
(28) 野々井と大蛇
スポンサーサイト
石岡地方の昔話
|
2014/08/01 06:37
柏原池の美少女(昔話1)

■柏原池の美少女
もう今からずっと昔のことです。
石岡が府中とよばれ、今石岡小学校があるところに平氏の本家である大掾氏(だいじょうし)が城を築いていた頃のお話です。
その頃、街はずれにある柏原池は今の何倍もの大きな池で、すぐそばにそびえる竜神山からきれいな水が絶えることなく流れておりました。
街にはお城の侍や商人たちが何時もあふれていてにぎやかな日々が続いていました。
そんなある時、町の人びとの間で月の美しい晩にこの柏原池にそれは美しい少女が現れるといううわさ話が広がりました。
また、この様な晩に竜神山から竜が池に向かって舞い降り、朝方に山の頂めがけて長い竜がくねくねと登って行くのを見た人がいるとの話もありました。
これは竜神山の竜が美しい少女に化けてやって来ているのだと噂は広がって行きました。
しかし、街の若者たちは皆、例え竜でもこの美しい娘を一度で良いから見て見たいものだと話しあっていました。
そんな中、一人の府中の街で評判の勇敢な若武者がこの噂の美少女に一目でよいから会いたいものだと出かけて行きました。
それは、ある月の澄んだ静かな秋の晩のことでした。
池には周りの木々の影が月明かりで墨絵のように映り、池の表面は鏡のように静かで月もその姿をくっきりと写し、絵にも言われぬ美しい光景が広がっていました。
若武者は池のほとりに腰かけると、手にした横笛を口に当ててと静かに吹き出しました。
静かな池に美しい音色が響いていきました。
すると何処からともなく美しい娘が現われ、この若武者の横に腰かけ、二人はぴったりと寄り添うようにこしかけました。
二人は美しい景色を眺め、若者の吹く笛の音が二人を包んでいきました。
誰が見ても美しい男女はお似合いの二人に見えました。
二人は夜の更けるのも忘れ、たのしそうに語らい、また池の周りを仲良く肩を寄せ合い歩きまわりました。
その二人の姿は鏡のような池に映り、二人もそれを楽しむかのようにいつまでも離れようとしませんでした。

翌朝、村人が池に行ってみると、この美しい若武者は水面に死体となって浮かんでいました。
しかしその顔は幸せそうに微笑んでいたと言います。
村人たちは、この若くて美しい若武者を憐れみ、ねんごろに葬り、池の畔に祠を建てました。
若武者の死後、この美しい少女は姿を表すことはなく、村人もこの娘は竜になって竜神山に帰ったにちがいないと噂したのでした。

そして、それからしばらくして子供たちの間で不思議な遊びが行われるようになりました。
この池のほとりに建てられた祠の廻りを、息をつかずに足けんけんして、三べん廻ると竜が出てくると誰とも無く言い始めたのです。
でも誰も怖がって途中で足をついたりして最後まで廻った子供はいないのです。
どうですか、竜神山の美しい竜に会いたいと思ったら祠の廻りで遊んでみませんか?
竜は姿を見せるかどうかわかりませんが、きっと鳴き声や空を美しく舞う姿を見ることができるかもしれません。

(あとがき)
これは石岡地方に伝わる昔話を基に、少しアレンジしてお話としました。
これからいくつかのお話に時々、アレンジを加えて見たいと思います。
茨城童子(昔話2)
■竜神山の鬼(茨城童子)
竜神山は昔からこの地方の信仰を集めてきました。
今はその姿が大きく変わってしまいましたが、石岡の町と八郷地区との境にそびえて山はこの地に大きな恵みをもたらすとともにそこを通る風の影響で北南で時としてその気候も微妙に変化していました。

(柏原池公園から見た竜神山。昔は真中が一番高い峰がそびえていた。)
この龍神山には大昔から竜神の夫婦がすんでおり、この竜神のおかげでふもとの井戸は枯れることは無く、遠くからも水汲みにたくさんの村人が訪れていました。
また日照りが続き干ばつになると、人びとはこの竜神山の竜神様に祈りをささげ、麓の湧き水を汲んで腰につけた竹筒に入れて自分たちの村に帰って神棚に捧げ、更に祈りをささげるとその村に雨が降ると言われておりました。
しかし、竜神山から自分たちの村に帰る途中で立ち止まり休むと、自分たちの村には雨が降らずに、その立ち止まった途中の村に雨が降ってしまうのでした。
そんな中、今から1000年以上前に茨城童子と呼ばれる暴れん坊の鬼がこの竜神山にやってきました。
茨城童子は京を荒らしまわった丹波大江山の酒呑童子(しゅてんどうじ)の第1の子分で各地の山を転々として各地の村々を荒らしまわっていました。
竜神山にやってきた茨城童子は大きな巾着袋をさげて、夜になると村に降りてきて里人をさらってそのきんちゃく袋に閉じ込め、大きな石の根締めで袋をふさぎ山に帰っていくのでした。
さらわれた人は帰ってこないので人びとは、捕まった人はきっと鬼に食べられてしまったのだと恐れられていました。
そして、夜には皆外に出ることは無くなり、親の言うことを聞かない子供には
「そんな我がままの子供は茨城童子がやってきて食べられてしまうよ」
というと、皆おとなしく親の言うことを聞いたといいます。
そんなある日、都から来た人から大江山の酒呑童子が源頼光(みなもとのらいこう)や渡辺綱などのすごく強い侍に退治されたという噂話が聞こえてきました。
そして、この地にも鬼退治にやってくるとの便りが入ってきました。
これを聞いた茨城童子は、あの親分の酒呑童子がやられたのでは敵わないと大きな体で震えあがってしまいました。
そして、大慌てで腰に下げていたきんちゃく袋を放り投げ、近くの三角山を越えて逃げて行ってしまいました。
このきんちゃく袋の根締めの四角い石は遠くまで飛ばされて、万福寺近くの畑の中にめり込んでしまい、巾着石として今でも残されています。

(万福寺西側の畑の中にある巾着石)
また、鬼が逃げて行った三角山は鬼越山(おにこしやま)と呼ばれ、今でも常陸風土記の丘の西側にあり、石岡と片野地区をつなぐ峠にその名前(鬼越峠)が残されています。

(風土記の丘公園から鬼越峠に向かう道)
(あとがき)
どこにも、鬼がふもとの人をさらっていく話は多く残っています。
茨城童子についても、大阪の茨木や越後長岡に茨木童子の話が伝わっています。
このお話に登場する巾着石は四角い石に真中に丸い穴があいていて、石岡地方で最も古い寺と言われる茨城廃寺(いばらきはいじ)の塔の一番上におかれた露盤だとみられています。
鬼越峠も荷物を持って越すのが大変な峠であったので「お荷越し峠」から転じたものとも言われています。
竜神山は昔からこの地方の信仰を集めてきました。
今はその姿が大きく変わってしまいましたが、石岡の町と八郷地区との境にそびえて山はこの地に大きな恵みをもたらすとともにそこを通る風の影響で北南で時としてその気候も微妙に変化していました。

(柏原池公園から見た竜神山。昔は真中が一番高い峰がそびえていた。)
この龍神山には大昔から竜神の夫婦がすんでおり、この竜神のおかげでふもとの井戸は枯れることは無く、遠くからも水汲みにたくさんの村人が訪れていました。
また日照りが続き干ばつになると、人びとはこの竜神山の竜神様に祈りをささげ、麓の湧き水を汲んで腰につけた竹筒に入れて自分たちの村に帰って神棚に捧げ、更に祈りをささげるとその村に雨が降ると言われておりました。
しかし、竜神山から自分たちの村に帰る途中で立ち止まり休むと、自分たちの村には雨が降らずに、その立ち止まった途中の村に雨が降ってしまうのでした。
そんな中、今から1000年以上前に茨城童子と呼ばれる暴れん坊の鬼がこの竜神山にやってきました。
茨城童子は京を荒らしまわった丹波大江山の酒呑童子(しゅてんどうじ)の第1の子分で各地の山を転々として各地の村々を荒らしまわっていました。
竜神山にやってきた茨城童子は大きな巾着袋をさげて、夜になると村に降りてきて里人をさらってそのきんちゃく袋に閉じ込め、大きな石の根締めで袋をふさぎ山に帰っていくのでした。
さらわれた人は帰ってこないので人びとは、捕まった人はきっと鬼に食べられてしまったのだと恐れられていました。
そして、夜には皆外に出ることは無くなり、親の言うことを聞かない子供には
「そんな我がままの子供は茨城童子がやってきて食べられてしまうよ」
というと、皆おとなしく親の言うことを聞いたといいます。
そんなある日、都から来た人から大江山の酒呑童子が源頼光(みなもとのらいこう)や渡辺綱などのすごく強い侍に退治されたという噂話が聞こえてきました。
そして、この地にも鬼退治にやってくるとの便りが入ってきました。
これを聞いた茨城童子は、あの親分の酒呑童子がやられたのでは敵わないと大きな体で震えあがってしまいました。
そして、大慌てで腰に下げていたきんちゃく袋を放り投げ、近くの三角山を越えて逃げて行ってしまいました。
このきんちゃく袋の根締めの四角い石は遠くまで飛ばされて、万福寺近くの畑の中にめり込んでしまい、巾着石として今でも残されています。

(万福寺西側の畑の中にある巾着石)
また、鬼が逃げて行った三角山は鬼越山(おにこしやま)と呼ばれ、今でも常陸風土記の丘の西側にあり、石岡と片野地区をつなぐ峠にその名前(鬼越峠)が残されています。

(風土記の丘公園から鬼越峠に向かう道)
(あとがき)
どこにも、鬼がふもとの人をさらっていく話は多く残っています。
茨城童子についても、大阪の茨木や越後長岡に茨木童子の話が伝わっています。
このお話に登場する巾着石は四角い石に真中に丸い穴があいていて、石岡地方で最も古い寺と言われる茨城廃寺(いばらきはいじ)の塔の一番上におかれた露盤だとみられています。
鬼越峠も荷物を持って越すのが大変な峠であったので「お荷越し峠」から転じたものとも言われています。
蛇の子を生んだ奴賀姫(昔話3)
・蛇の子を生んだ奴賀姫(ぬかひめ)
むかしむかし今から1300年以上前のお話です。
竜神山の麓から約1里半(約6km)ほどいった片岡村(現石岡市片岡)に大変仲の良い二人の兄妹が住んでいました。
兄の名前は奴賀比古(ぬかひこ)、妹は奴賀比咩(ぬかひめ)といいました。
妹の奴賀比咩が器量が良いと評判でした。
その奴賀比咩が年頃になったある晩のこと、ひとりで部屋にいると表戸をトントンと誰かが叩く音がします。
奴賀比咩がそっと表戸を開けると、そこには絵に書いたような美男子が立っていました。
一目見てその美しさにうっとりとしてしまいましたが、その若者はだまって夕闇の中に消えていってしまいました。
また次の夜もその若者はやってきて、またそのまま帰って行く日がしばらく続きました。
奴賀比咩はその若者が来るのが待ち遠しくてなりませんでした。
そして、その若者の事が頭から離れなくなっていたある晩、ついにその若者は奴賀比咩のもとに近づき、結婚を申し込んできました。
奴賀比咩も待ちわびていたところですから喜んでこれを受け入れ、すぐに夫婦となりました。
そして幸せな毎日を過ごしておりました。そのうち奴賀比咩に子供が生まれました。
しかし、生まれた子は小さな体でしたが、顔は人間で体が蛇だったのです。
その子は昼は押し黙ったままで、夜になると奴賀比咩に語りかけてきました。
奴賀比咩は夫が蛇の化身であったことを知り、この子はきっと神の子供であろうと、兄と相談して家の中に祭壇を作って浮き杯の中にその子供を入れて供えたのでした。
しかし、次の日にはもう大きくなってしまって浮き杯では小さすぎたので、今度は瓮(ひらか:物を運ぶ盆)に入れ替えてやりました。
たが、またすぐに大きくなり瓮でも入りきれなくなり、今度は大きな甕(みか:酒を入れるかめ)に入れ替えました。
しかし、これも小さくなって、家中もうこれ以上おおきな器がなくなってしまいました。
そこで奴賀比咩はその子に、
「あなたの不思議な力を見ていると神の子なのだといふことがよくわかります。わたしたちの力では育てきれません。どうか父の神のところへ行って下さい」
と話すと、蛇の子はしばらく悲しんでいたが、ようやく決心したように
「私は一人では父の所に行くことはできません。どうぞお供を一人つけて下さい」
と言いました。奴賀比咩は
「見てわかる通り、この家は兄と私の二人きりです。ですからその願いを聞くことはかないません」
と願いを退けました。その言葉を聴くと蛇の子は、急に怒りが顔に現れ、口より炎のような真っ赤な舌を出したかとみるや、その色は緑色に変わり、兄の奴賀比古をめがけて襲いかかってきました。
驚いた奴賀比咩は側にあった瓮を投げつけると、瓮がその蛇の子に当たり、蛇の子は神通力を失って死んでしまいました。
この蛇の子供の亡骸を片岡部落の入口の塚に葬って供養をすると、やがてその蛇の子は竜になって、竜神山の峯に昇りそこにとどまったと言われています。
また兄妹の子孫は、社を立てて蛇を祭ったので、家が絶えてしまふことはなかったそうです。
(あとがき)
このお話は、今から1300年前に書かれた常陸国風土記の那賀郡のところに伝わる話として書かれています。
そしてその山は「晡時臥(くれふし)山」となっています。
こちらのお話では蛇の子は怒って、伯父のヌカヒコを殺し、そのまま天に昇らうとしたが、これに驚き怒った母が、平瓮を投げ当てると、平瓮の呪力で蛇は昇ることができず、そのままくれふしの山の峯にとどまることになった。
とされています。
くれふし山は今では水戸市郊外の朝房山がその場所で、片岡は笠間市大橋付近や木葉下(あぼっけ)あたりではないかと言われています。
しかし、石岡地方はその昔茨城郡の郡衙(ぐんが:群の中心都市)がこの笠間市小原付近から石岡に移されたともいわれ、片岡の村もこちらに移り話もこちらの山(竜神山)の話として伝わってきたのではないかと思われます。
いずれにしても三輪山の蛇神信仰と酷似しており、この地にこの古い話が残されていることはとても貴重な事だと思います。

(千葉県旭市岩井の滝不動より)
むかしむかし今から1300年以上前のお話です。
竜神山の麓から約1里半(約6km)ほどいった片岡村(現石岡市片岡)に大変仲の良い二人の兄妹が住んでいました。
兄の名前は奴賀比古(ぬかひこ)、妹は奴賀比咩(ぬかひめ)といいました。
妹の奴賀比咩が器量が良いと評判でした。
その奴賀比咩が年頃になったある晩のこと、ひとりで部屋にいると表戸をトントンと誰かが叩く音がします。
奴賀比咩がそっと表戸を開けると、そこには絵に書いたような美男子が立っていました。
一目見てその美しさにうっとりとしてしまいましたが、その若者はだまって夕闇の中に消えていってしまいました。
また次の夜もその若者はやってきて、またそのまま帰って行く日がしばらく続きました。
奴賀比咩はその若者が来るのが待ち遠しくてなりませんでした。
そして、その若者の事が頭から離れなくなっていたある晩、ついにその若者は奴賀比咩のもとに近づき、結婚を申し込んできました。
奴賀比咩も待ちわびていたところですから喜んでこれを受け入れ、すぐに夫婦となりました。
そして幸せな毎日を過ごしておりました。そのうち奴賀比咩に子供が生まれました。
しかし、生まれた子は小さな体でしたが、顔は人間で体が蛇だったのです。
その子は昼は押し黙ったままで、夜になると奴賀比咩に語りかけてきました。
奴賀比咩は夫が蛇の化身であったことを知り、この子はきっと神の子供であろうと、兄と相談して家の中に祭壇を作って浮き杯の中にその子供を入れて供えたのでした。
しかし、次の日にはもう大きくなってしまって浮き杯では小さすぎたので、今度は瓮(ひらか:物を運ぶ盆)に入れ替えてやりました。
たが、またすぐに大きくなり瓮でも入りきれなくなり、今度は大きな甕(みか:酒を入れるかめ)に入れ替えました。
しかし、これも小さくなって、家中もうこれ以上おおきな器がなくなってしまいました。
そこで奴賀比咩はその子に、
「あなたの不思議な力を見ていると神の子なのだといふことがよくわかります。わたしたちの力では育てきれません。どうか父の神のところへ行って下さい」
と話すと、蛇の子はしばらく悲しんでいたが、ようやく決心したように
「私は一人では父の所に行くことはできません。どうぞお供を一人つけて下さい」
と言いました。奴賀比咩は
「見てわかる通り、この家は兄と私の二人きりです。ですからその願いを聞くことはかないません」
と願いを退けました。その言葉を聴くと蛇の子は、急に怒りが顔に現れ、口より炎のような真っ赤な舌を出したかとみるや、その色は緑色に変わり、兄の奴賀比古をめがけて襲いかかってきました。
驚いた奴賀比咩は側にあった瓮を投げつけると、瓮がその蛇の子に当たり、蛇の子は神通力を失って死んでしまいました。
この蛇の子供の亡骸を片岡部落の入口の塚に葬って供養をすると、やがてその蛇の子は竜になって、竜神山の峯に昇りそこにとどまったと言われています。
また兄妹の子孫は、社を立てて蛇を祭ったので、家が絶えてしまふことはなかったそうです。
(あとがき)
このお話は、今から1300年前に書かれた常陸国風土記の那賀郡のところに伝わる話として書かれています。
そしてその山は「晡時臥(くれふし)山」となっています。
こちらのお話では蛇の子は怒って、伯父のヌカヒコを殺し、そのまま天に昇らうとしたが、これに驚き怒った母が、平瓮を投げ当てると、平瓮の呪力で蛇は昇ることができず、そのままくれふしの山の峯にとどまることになった。
とされています。
くれふし山は今では水戸市郊外の朝房山がその場所で、片岡は笠間市大橋付近や木葉下(あぼっけ)あたりではないかと言われています。
しかし、石岡地方はその昔茨城郡の郡衙(ぐんが:群の中心都市)がこの笠間市小原付近から石岡に移されたともいわれ、片岡の村もこちらに移り話もこちらの山(竜神山)の話として伝わってきたのではないかと思われます。
いずれにしても三輪山の蛇神信仰と酷似しており、この地にこの古い話が残されていることはとても貴重な事だと思います。

(千葉県旭市岩井の滝不動より)
化け鼠と12匹の猫(昔話4)
昔、今の石岡が常陸の都であった頃、筑波山は多くの民衆の信仰の山でした。
そしてこの筑波山の寺に御参りする人がたくさんおりました。
そんな頃、ある一人の汚らしい身なりをした旅の僧侶が府中街道と呼ばれた道を山から府中(今の石岡)を目指して下りてまいりました。
山の峠(風返峠)を越える頃からあたりは薄暗くなり始めておりました。
ここから府中の街まではまだ大分あるので、旅の僧侶はどこかで今宵の宿を探さねばなるまいと、夕暮れの坂道の途中で野良仕事をしていた村人を見つけて声をかけました。
坊主:見ての通りの諸国行脚をしている旅の坊主であるが、このあたりに泊めてくれる寺などは無いかな
里人:寺はこの先にあるが、もう長いこと無住で荒れ果てております。ここを少し下った先には小幡の街があり、旅籠もありますので、そちらに泊まったら良かろう。
坊主:そのような寺こそ、修行の身のわしが泊まるのにもってこいじゃ
村人に礼を言ってその山寺に泊まることにしました。
たしかに村人がいうように寺は荒れ果てておりましたが、周りは木々に覆われ、静寂な雰囲気の比較的大きな寺であり雨露をしのぐには十分でした。
僧侶は寺に入るとまず、務めのお経を唱え、そして広間に横になり眠ろうと目を閉じてしばらくしてから、自分の所に近づいてくるものの気配を感じました。
僧侶がじっとしておりますと、それは枕元に近づき静かな声でしゃべりはじめました。
「私はこの寺に住む猫でございます。
この寺にはそれは大きな化け物の大ネズミが住んでおります。
そして、このネズミは人を食い殺したりの悪さをしてどうしようもありません。
すでに私の仲間なども何匹か殺されてしまいました。
私もネズミの言うことをきかないと殺されてしまいます。
私一匹ではとても敵いません。
どうかお坊様の力で、他に11匹の猫を集めてきていただきたいのです。
そして私共にお坊様の法力をお授け下さい。
そうすれば12匹の猫でこの化けネズミを退治したいと思います。
どうかお願いします。」
坊主が目を開けるとそこには大きな猫が一匹ちょこんと座っていました。
あまり話が真剣であったので坊主も頷きますと猫はそっと戻っていってしまいました。
そこで坊主は翌日、近くから大きな猫を11匹集め、寺に連れて戻りました。
そして夜になるとまた昨日の猫が現れたので、坊主はすべての(12匹の)猫を並べてお経を唱えました。
猫は親分の猫にしたがって静かに寺の奥の方に消えて行きました。
すると、夜中になり、天井裏や壁の向こうからものすごい大きなうなり声やドタンバタンの大音響が響き渡りました。
これがしばらく続いたのですがやがて辺りは静かになりました。
朝になって見てみると、お寺の中にそれはそれは大きな一匹のネズミと12匹の猫が死んでいました。
僧侶は12匹の猫と1匹のネズミを丁寧に葬って塚を築いたのでした。
このためこの地域を十三塚と呼ぶようになったといわれています。


----------------------------------------------------------------
(あとがき)
この話は旧八郷地区の果樹園の里と知られた十三塚に伝わるお話です。地元では十三塚の名前の由来を伝えるものとして伝わっています。
ここは万葉の頃の府中街道にあたり、筑波山に徳一法師が中禅寺を建立し、それを取り囲むように配置した四面薬師の一つである山寺(北面薬師)があった場所です。
そのため、現地を訪れ、果樹園の里に吹く優しい風を受けながらこの話を思い出すと、この土地に昔から根付いた話としてとても強い印象を与えてくれます。
伝説を生む地というのはこのような場所なのかもしれないと思えてきます。
十三塚という地名は全国各地にあります。その多くの場所でその名前の謂れが残されています。
その多くは戦で死んだ武士であったり、川でおぼれた子供であったり、戦いに負けた側を支援し殺された地元の名主たちであったりした人びとの墓とされるものが多いようです。
古代の丸い古墳がたくさん集まっているようなところに、そののちに地元に残る悲しい話が加わってお話として残っているのかもしれません。
ここの化け鼠を退治した勇敢な猫たちはどのような話から来たものでしょうか。
昔からネズミは穀物などを食い荒らす敵で、猫はその逆だったのでしょうか。
全国各地に養蚕が盛んになると猫を神様として祀るところが出てきました。
このような事柄も関係しているのかもしれません。
そしてこの筑波山の寺に御参りする人がたくさんおりました。
そんな頃、ある一人の汚らしい身なりをした旅の僧侶が府中街道と呼ばれた道を山から府中(今の石岡)を目指して下りてまいりました。
山の峠(風返峠)を越える頃からあたりは薄暗くなり始めておりました。
ここから府中の街まではまだ大分あるので、旅の僧侶はどこかで今宵の宿を探さねばなるまいと、夕暮れの坂道の途中で野良仕事をしていた村人を見つけて声をかけました。
坊主:見ての通りの諸国行脚をしている旅の坊主であるが、このあたりに泊めてくれる寺などは無いかな
里人:寺はこの先にあるが、もう長いこと無住で荒れ果てております。ここを少し下った先には小幡の街があり、旅籠もありますので、そちらに泊まったら良かろう。
坊主:そのような寺こそ、修行の身のわしが泊まるのにもってこいじゃ
村人に礼を言ってその山寺に泊まることにしました。
たしかに村人がいうように寺は荒れ果てておりましたが、周りは木々に覆われ、静寂な雰囲気の比較的大きな寺であり雨露をしのぐには十分でした。
僧侶は寺に入るとまず、務めのお経を唱え、そして広間に横になり眠ろうと目を閉じてしばらくしてから、自分の所に近づいてくるものの気配を感じました。
僧侶がじっとしておりますと、それは枕元に近づき静かな声でしゃべりはじめました。
「私はこの寺に住む猫でございます。
この寺にはそれは大きな化け物の大ネズミが住んでおります。
そして、このネズミは人を食い殺したりの悪さをしてどうしようもありません。
すでに私の仲間なども何匹か殺されてしまいました。
私もネズミの言うことをきかないと殺されてしまいます。
私一匹ではとても敵いません。
どうかお坊様の力で、他に11匹の猫を集めてきていただきたいのです。
そして私共にお坊様の法力をお授け下さい。
そうすれば12匹の猫でこの化けネズミを退治したいと思います。
どうかお願いします。」
坊主が目を開けるとそこには大きな猫が一匹ちょこんと座っていました。
あまり話が真剣であったので坊主も頷きますと猫はそっと戻っていってしまいました。
そこで坊主は翌日、近くから大きな猫を11匹集め、寺に連れて戻りました。
そして夜になるとまた昨日の猫が現れたので、坊主はすべての(12匹の)猫を並べてお経を唱えました。
猫は親分の猫にしたがって静かに寺の奥の方に消えて行きました。
すると、夜中になり、天井裏や壁の向こうからものすごい大きなうなり声やドタンバタンの大音響が響き渡りました。
これがしばらく続いたのですがやがて辺りは静かになりました。
朝になって見てみると、お寺の中にそれはそれは大きな一匹のネズミと12匹の猫が死んでいました。
僧侶は12匹の猫と1匹のネズミを丁寧に葬って塚を築いたのでした。
このためこの地域を十三塚と呼ぶようになったといわれています。


----------------------------------------------------------------
(あとがき)
この話は旧八郷地区の果樹園の里と知られた十三塚に伝わるお話です。地元では十三塚の名前の由来を伝えるものとして伝わっています。
ここは万葉の頃の府中街道にあたり、筑波山に徳一法師が中禅寺を建立し、それを取り囲むように配置した四面薬師の一つである山寺(北面薬師)があった場所です。
そのため、現地を訪れ、果樹園の里に吹く優しい風を受けながらこの話を思い出すと、この土地に昔から根付いた話としてとても強い印象を与えてくれます。
伝説を生む地というのはこのような場所なのかもしれないと思えてきます。
十三塚という地名は全国各地にあります。その多くの場所でその名前の謂れが残されています。
その多くは戦で死んだ武士であったり、川でおぼれた子供であったり、戦いに負けた側を支援し殺された地元の名主たちであったりした人びとの墓とされるものが多いようです。
古代の丸い古墳がたくさん集まっているようなところに、そののちに地元に残る悲しい話が加わってお話として残っているのかもしれません。
ここの化け鼠を退治した勇敢な猫たちはどのような話から来たものでしょうか。
昔からネズミは穀物などを食い荒らす敵で、猫はその逆だったのでしょうか。
全国各地に養蚕が盛んになると猫を神様として祀るところが出てきました。
このような事柄も関係しているのかもしれません。
婆ヶ峰と爺ヶ峰(昔話5)
■婆ヶ峰(ばあがみね)・爺ヶ峰(じじがみね)
むかしむかしのことです。
石岡が常陸府中(ひたちふちゅう)と呼ばれていた頃、筑波山には多くの巡礼の人びとが登っておりました。
そんなある日の夕方です。
巡礼姿の老夫婦が常陸府中側から山道を登り、筑波の尾根にある峠道を急ぎ足で歩いておりました。
もう日が暮れかけており、暗くならないうちに筑波の宿に到着したいと、疲れた足を引きずりながら二人はお互いを励ましあいながら先を急いでいました。
するとそこに追いはぎが現われたのです。
お爺さんは、荷物やお金をお婆さんに持たせて、先に宿に行くように話し、持っていた杖で追いはぎに向かっていきました。
しかし、乱暴ものの追いはぎは大男でとても強く、とうとうお爺さんは殺されてしまいました。
お婆さんは先に逃げていたのですが、お爺さんがお金を持っていないと知った追いはぎが、お婆さんの後を追いかけてきました。
そして、とうとう一つ先の峰のあたりでつかまり、お婆さんも殺されてしまったのです。
よく朝になって、麓の村人が二人の変わり果てた姿を発見し、皆で泣いて亡くなった山の近くに二人をねんごろに埋葬して石仏を作り、毎年お彼岸に供養をするようになりました。
そして、村人達はこの場所を、お婆さんとお爺さんの峰ということで、「婆ヶ峰(ばあがみね)・爺ヶ峰(じじがみね)」と呼ぶようになったそうです。

さて、それからずいぶんたった頃です。
この供養のために立てられた石仏に、子供がなかなか授からずに困っている人がお参りすると、子供が授かるといううわさが広がっていきました。
「この石仏をお借りしてお腹にだいて寝ると子宝に恵まれる。病気の人は元気になる。」
そんな話がいつの間にか広がっっていったのです。
そしてそれから子供に恵まれない多くの人がここを訪れて、子宝に恵まれ、またお礼に訪れるようになりました。
今では筑波山をバックに大きな「子授け地蔵」が立っています。

(あとがき)
筑波山のつつじヶ丘の下の風返峠から東筑波スカイラインを少し南側に下ったところに「媼ヶ峰駐車場」があり、その奥に筑波山の女体山・男体山をバックに子授け地蔵が建てられています。
山に架かる雲の動きや朝日に輝く山を見ることができる素晴らしい場所です。
また、冬には、日が沈むころに遠く富士山がきれいなシルエットで浮かび上がります。
このような悲しい昔話がありますが、歩いて筑波詣に行く途中には実際にこのような事もあったのかもしれません。
子授け地蔵は各地にありますが、ここは特にそのパワーを感じる場所だと思います。
今でも赤い鳥居をくぐったお宮の前には、たくさんのお札が置かれ、お礼のぬいぐるみや人形などが置かれています。
姥ヶ峰は古来から筑波山の名所のひとつとして「筑波山恋明書」に”姥かみね”と記載されており、昔から信仰の領域であったと思われます。
むかしむかしのことです。
石岡が常陸府中(ひたちふちゅう)と呼ばれていた頃、筑波山には多くの巡礼の人びとが登っておりました。
そんなある日の夕方です。
巡礼姿の老夫婦が常陸府中側から山道を登り、筑波の尾根にある峠道を急ぎ足で歩いておりました。
もう日が暮れかけており、暗くならないうちに筑波の宿に到着したいと、疲れた足を引きずりながら二人はお互いを励ましあいながら先を急いでいました。
するとそこに追いはぎが現われたのです。
お爺さんは、荷物やお金をお婆さんに持たせて、先に宿に行くように話し、持っていた杖で追いはぎに向かっていきました。
しかし、乱暴ものの追いはぎは大男でとても強く、とうとうお爺さんは殺されてしまいました。
お婆さんは先に逃げていたのですが、お爺さんがお金を持っていないと知った追いはぎが、お婆さんの後を追いかけてきました。
そして、とうとう一つ先の峰のあたりでつかまり、お婆さんも殺されてしまったのです。
よく朝になって、麓の村人が二人の変わり果てた姿を発見し、皆で泣いて亡くなった山の近くに二人をねんごろに埋葬して石仏を作り、毎年お彼岸に供養をするようになりました。
そして、村人達はこの場所を、お婆さんとお爺さんの峰ということで、「婆ヶ峰(ばあがみね)・爺ヶ峰(じじがみね)」と呼ぶようになったそうです。

さて、それからずいぶんたった頃です。
この供養のために立てられた石仏に、子供がなかなか授からずに困っている人がお参りすると、子供が授かるといううわさが広がっていきました。
「この石仏をお借りしてお腹にだいて寝ると子宝に恵まれる。病気の人は元気になる。」
そんな話がいつの間にか広がっっていったのです。
そしてそれから子供に恵まれない多くの人がここを訪れて、子宝に恵まれ、またお礼に訪れるようになりました。
今では筑波山をバックに大きな「子授け地蔵」が立っています。

(あとがき)
筑波山のつつじヶ丘の下の風返峠から東筑波スカイラインを少し南側に下ったところに「媼ヶ峰駐車場」があり、その奥に筑波山の女体山・男体山をバックに子授け地蔵が建てられています。
山に架かる雲の動きや朝日に輝く山を見ることができる素晴らしい場所です。
また、冬には、日が沈むころに遠く富士山がきれいなシルエットで浮かび上がります。
このような悲しい昔話がありますが、歩いて筑波詣に行く途中には実際にこのような事もあったのかもしれません。
子授け地蔵は各地にありますが、ここは特にそのパワーを感じる場所だと思います。
今でも赤い鳥居をくぐったお宮の前には、たくさんのお札が置かれ、お礼のぬいぐるみや人形などが置かれています。
姥ヶ峰は古来から筑波山の名所のひとつとして「筑波山恋明書」に”姥かみね”と記載されており、昔から信仰の領域であったと思われます。
常陸国分寺の雄鐘と雌鐘伝説(昔話6)
「常陸国分寺の雄鐘・雌鐘の伝説」
石岡でもっとも有名な伝説はこの国分寺の鐘伝説でしょう。
石岡駅は現在駅舎の工事中ですが、駅の下りホームに壁画が描かれているのを駅に来た人は見たことがあるのではないでしょうか。
まず、今回はこの壁画と説明文をそのまま掲載させていただきます。(作画・村岡 将・・・石岡駅壁画)

昔むかしのある晴れた日。子生の浦(こなじのうら=旭村)の海に、二口の重い釣鐘がポッカリと浮かんだ。

見つけた漁師は驚き「そうだ。龍宮の女神が、府中の国分寺に寄進なさるに違いない」と、大勢のなかまを呼び集めて釣鐘を引き上げた。これは随分と骨が折れた。

釣鐘を運ぶのも大変だった。何日もかかった。田崎(旭村)の橋のそばで突然車の心棒が折れた。それから、この橋を「こみ折れ橋」と云うようになったそうだ。

やっとのことで府中の国分寺に着き、めでたく雄鐘と雌鐘が鐘楼に吊り下げられた。人々は二鐘がそろったお寺の見事さを誉めたたえた。

この国分寺は奈良時代に聖武天皇が全国に建てた寺の一つだ。十年もかかって造り上げられた大きくて立派な建物だった。

ところが、怪力の大泥棒がこの釣鐘に目を付けていた。ある夜のこと、雌鐘をはずしてとうとう盗んでしまった。

大泥棒は雌鐘を背負って、高浜街道をひたすら走り、霞ヶ浦の岸にたどり着いた。ここまで来れば安心と舟に乗せた。

沖に舟をこぎ出すと空はみるみる曇り、雨に風、雷も波も激しくなってきた。そのとき突然「国分寺、雄鐘恋しやボーン」と雌鐘が鳴った。

これには大泥棒も驚きあわてた。「きっと、釣鐘を盗んだ罰だ」大泥棒は雌鐘を三叉沖めがけてほうりこんでしまった。

それ以来、国分寺の雄鐘と雌鐘はお互いに引き合い、沖の雌鐘は明けと暮れに「国分寺、雄鐘恋しやボーン」と鳴ったという。

そして、沖の雌鐘は毎日米一粒分だけ岸に寄って来るが、波やしけのため引き戻されて、今だに岸に着けないでいるそうだ。
(石岡市史[伝説]より抜粋/作画・村岡 将)
(あとがき)
常陸国国府に建てられた国分寺には雌雄2つの鐘があった。
その一つが盗まれてしまった。
盗んだのは力持ちと言うことで弁慶などと言う話もあるが、盗まれたのは江戸時代初期(寛永16年・1639年頃)に今の恋瀬川の工事のために、この鐘を一つ時を知らせるために工事現場に持ちだしていた。
これが盗まれてしまったという。
最初の頃の子生(こなじ)から鐘を運んだことや、地名として七日ケ原、八日ケ堤、こみ折れ橋などの地名がこの伝説によると鉾田の地方で伝わっている。
この鐘についてはかすみがうら市にはこの鐘を作ったとの伝説あり、何処で制作されたものかはわかりません。
また鐘が沈んだとされる三つ叉沖は霞ヶ浦が土浦入りと高浜入りに分かれる場所で、かすみがうら市の歩崎の沖合になります。流れが急で渦を巻いたりして舟は難所なようです。
この辺りにもこの鐘伝説が伝わっています。
上の話には出てこないが、江戸時代に水戸藩領であった井関の方には、この沈んだ鐘を湖から引き上げようと水戸光圀(黄門)が女性の髪の毛をたくさん束ねて撚った綱で引き揚げさせたが途中で切れたとの話が伝わっています。
話はいろいろなパターンがありそれぞれに面白いものである。
残っていたもう一つの鐘も火事で焼け、小さく鋳込みなおして寺の関係者に配ったと言われています。
いずれにせよ地元に伝わる話として大切に理解しておきたいと思います。
石岡でもっとも有名な伝説はこの国分寺の鐘伝説でしょう。
石岡駅は現在駅舎の工事中ですが、駅の下りホームに壁画が描かれているのを駅に来た人は見たことがあるのではないでしょうか。
まず、今回はこの壁画と説明文をそのまま掲載させていただきます。(作画・村岡 将・・・石岡駅壁画)

昔むかしのある晴れた日。子生の浦(こなじのうら=旭村)の海に、二口の重い釣鐘がポッカリと浮かんだ。

見つけた漁師は驚き「そうだ。龍宮の女神が、府中の国分寺に寄進なさるに違いない」と、大勢のなかまを呼び集めて釣鐘を引き上げた。これは随分と骨が折れた。

釣鐘を運ぶのも大変だった。何日もかかった。田崎(旭村)の橋のそばで突然車の心棒が折れた。それから、この橋を「こみ折れ橋」と云うようになったそうだ。

やっとのことで府中の国分寺に着き、めでたく雄鐘と雌鐘が鐘楼に吊り下げられた。人々は二鐘がそろったお寺の見事さを誉めたたえた。

この国分寺は奈良時代に聖武天皇が全国に建てた寺の一つだ。十年もかかって造り上げられた大きくて立派な建物だった。

ところが、怪力の大泥棒がこの釣鐘に目を付けていた。ある夜のこと、雌鐘をはずしてとうとう盗んでしまった。

大泥棒は雌鐘を背負って、高浜街道をひたすら走り、霞ヶ浦の岸にたどり着いた。ここまで来れば安心と舟に乗せた。

沖に舟をこぎ出すと空はみるみる曇り、雨に風、雷も波も激しくなってきた。そのとき突然「国分寺、雄鐘恋しやボーン」と雌鐘が鳴った。

これには大泥棒も驚きあわてた。「きっと、釣鐘を盗んだ罰だ」大泥棒は雌鐘を三叉沖めがけてほうりこんでしまった。

それ以来、国分寺の雄鐘と雌鐘はお互いに引き合い、沖の雌鐘は明けと暮れに「国分寺、雄鐘恋しやボーン」と鳴ったという。

そして、沖の雌鐘は毎日米一粒分だけ岸に寄って来るが、波やしけのため引き戻されて、今だに岸に着けないでいるそうだ。
(石岡市史[伝説]より抜粋/作画・村岡 将)
(あとがき)
常陸国国府に建てられた国分寺には雌雄2つの鐘があった。
その一つが盗まれてしまった。
盗んだのは力持ちと言うことで弁慶などと言う話もあるが、盗まれたのは江戸時代初期(寛永16年・1639年頃)に今の恋瀬川の工事のために、この鐘を一つ時を知らせるために工事現場に持ちだしていた。
これが盗まれてしまったという。
最初の頃の子生(こなじ)から鐘を運んだことや、地名として七日ケ原、八日ケ堤、こみ折れ橋などの地名がこの伝説によると鉾田の地方で伝わっている。
この鐘についてはかすみがうら市にはこの鐘を作ったとの伝説あり、何処で制作されたものかはわかりません。
また鐘が沈んだとされる三つ叉沖は霞ヶ浦が土浦入りと高浜入りに分かれる場所で、かすみがうら市の歩崎の沖合になります。流れが急で渦を巻いたりして舟は難所なようです。
この辺りにもこの鐘伝説が伝わっています。
上の話には出てこないが、江戸時代に水戸藩領であった井関の方には、この沈んだ鐘を湖から引き上げようと水戸光圀(黄門)が女性の髪の毛をたくさん束ねて撚った綱で引き揚げさせたが途中で切れたとの話が伝わっています。
話はいろいろなパターンがありそれぞれに面白いものである。
残っていたもう一つの鐘も火事で焼け、小さく鋳込みなおして寺の関係者に配ったと言われています。
いずれにせよ地元に伝わる話として大切に理解しておきたいと思います。
鈴ヶ池と片目の魚(昔話7)
■鈴ヶ池と片目の魚
昔、俗称、城中山(現在の石岡小学校の西)に鈴ヶ池と呼ぶ池がありました。
そこには府中落城にまつわる悲しい物語が伝えられています。
時は、天正18年(1590年)12月22日。
名実ともに堅城不落を誇り、連綿24代続いた大掾(だいじょう)氏も左近太夫浄幹(きよもと)の代に武運つたなく佐竹義宣のために敗北した。
戦死した父の後、家督を継いだ浄幹も戦いに明け暮れ、この時まだ18歳であった。

(石岡小学校入口にある府中城の土塁跡)
この天正18年春に豊臣秀吉が天下統一の最後の仕上げとして、小田原城の北条氏を攻めを滅亡させた。
そして、小田原攻めに参戦しなかった大掾氏は秀吉から常陸国を任された佐竹義宣によって滅ぼされる運命にあったのである。
浄幹の妻は小川の園部城主の息女鈴姫といい、容姿美しい方であった。
佐竹義宣は、難攻不落と言われた府中城攻略のため、まず園部城(小川)を打ち落とし、その園部の軍勢をもって府中へ、府中へと攻め寄せてきた。
府中城の周りには出城や砦を多く持っていたが、これも次々に陥落し、城に残っていた浄幹のもとに砂塵をけってはせ参ずる注進は、いずれも味方の敗北のみであった。
浄幹の無念やるかたなく、鈴姫の悲嘆はいかばかりであったろう。
見方と思っていた園部氏も今は敵。
敵が目の前まで迫り、いよいよ観念のほぞを固めた城主浄幹はついに部下に命じて館に火をかけさせた。
歴史的名城、府中城もたちまちのうちに、火の海と化し、黒煙と火の粉は勢いよく大空に舞い、突然、夢破られた夜鴉の群れは塒(ねぐら)を捨てて戸惑い舞い狂った。
この燃えさかる炎の中、浄幹はついに乱心し、づかづかと鈴姫に迫り
「そなたの父、園部も今日は敵だ。そちも、また、わが妻でないぞ。思い知れ」
とばかり、手にする刀で片目をつきさした。
そして、燃えさかる火中に浄幹は身を投じ、城と運命をともにした。
片目に死の烙印を押された鈴姫は、焼け落ちる棟木の火明に、身悶えの姿も哀れに城中の池へ身を投じたのであった。
なんと悲しい最後であったか。
かくして名城石岡城は亡びたのである。
それから後、この池にすむ魚は、不思議なことに片目で、悲劇的な鈴姫の恨みの表われだと語りつがれている。
(あとがき)
この鈴ヶ池は戦後まで残されていたが、埋め立てられ宅地化され、残念ながら今では当時の面影をしのぶことができない。
この辺りは天然の内堀となり、この池も当時は城内の湧き水として貴重な池であったと思われる。
関東を切り開き、基礎を築いてきた桓武平氏のいわば統領である常陸大掾氏であるが、戦国時代の全国統一の波に翻弄され、その全てを失った。
焼き尽くされた後には、やはりいろいろな怨念が残るものなのであろう。
大変インパクトの強い話であるが、今ではこの鈴ヶ池を探しても跡かたもないのはさびしいものである。

(写真集 いしおか 昭和の肖像 1994年発行 より)
昔、俗称、城中山(現在の石岡小学校の西)に鈴ヶ池と呼ぶ池がありました。
そこには府中落城にまつわる悲しい物語が伝えられています。
時は、天正18年(1590年)12月22日。
名実ともに堅城不落を誇り、連綿24代続いた大掾(だいじょう)氏も左近太夫浄幹(きよもと)の代に武運つたなく佐竹義宣のために敗北した。
戦死した父の後、家督を継いだ浄幹も戦いに明け暮れ、この時まだ18歳であった。

(石岡小学校入口にある府中城の土塁跡)
この天正18年春に豊臣秀吉が天下統一の最後の仕上げとして、小田原城の北条氏を攻めを滅亡させた。
そして、小田原攻めに参戦しなかった大掾氏は秀吉から常陸国を任された佐竹義宣によって滅ぼされる運命にあったのである。
浄幹の妻は小川の園部城主の息女鈴姫といい、容姿美しい方であった。
佐竹義宣は、難攻不落と言われた府中城攻略のため、まず園部城(小川)を打ち落とし、その園部の軍勢をもって府中へ、府中へと攻め寄せてきた。
府中城の周りには出城や砦を多く持っていたが、これも次々に陥落し、城に残っていた浄幹のもとに砂塵をけってはせ参ずる注進は、いずれも味方の敗北のみであった。
浄幹の無念やるかたなく、鈴姫の悲嘆はいかばかりであったろう。
見方と思っていた園部氏も今は敵。
敵が目の前まで迫り、いよいよ観念のほぞを固めた城主浄幹はついに部下に命じて館に火をかけさせた。
歴史的名城、府中城もたちまちのうちに、火の海と化し、黒煙と火の粉は勢いよく大空に舞い、突然、夢破られた夜鴉の群れは塒(ねぐら)を捨てて戸惑い舞い狂った。
この燃えさかる炎の中、浄幹はついに乱心し、づかづかと鈴姫に迫り
「そなたの父、園部も今日は敵だ。そちも、また、わが妻でないぞ。思い知れ」
とばかり、手にする刀で片目をつきさした。
そして、燃えさかる火中に浄幹は身を投じ、城と運命をともにした。
片目に死の烙印を押された鈴姫は、焼け落ちる棟木の火明に、身悶えの姿も哀れに城中の池へ身を投じたのであった。
なんと悲しい最後であったか。
かくして名城石岡城は亡びたのである。
それから後、この池にすむ魚は、不思議なことに片目で、悲劇的な鈴姫の恨みの表われだと語りつがれている。
(あとがき)
この鈴ヶ池は戦後まで残されていたが、埋め立てられ宅地化され、残念ながら今では当時の面影をしのぶことができない。
この辺りは天然の内堀となり、この池も当時は城内の湧き水として貴重な池であったと思われる。
関東を切り開き、基礎を築いてきた桓武平氏のいわば統領である常陸大掾氏であるが、戦国時代の全国統一の波に翻弄され、その全てを失った。
焼き尽くされた後には、やはりいろいろな怨念が残るものなのであろう。
大変インパクトの強い話であるが、今ではこの鈴ヶ池を探しても跡かたもないのはさびしいものである。

(写真集 いしおか 昭和の肖像 1994年発行 より)
護身(ごみ)地蔵(昔話8)
護身地蔵
国道6号線の高浜街道との交差点「貝地(かいじ)」近くに「護身地蔵(ごみじぞう)」がある。
この地蔵尊はこの国道ができるまでは高浜街道沿いの所にあった。
この地蔵はお参りすると風邪が治るとの噂で参拝客がやってくる。
そして願いが叶うとと、わらの納豆つっこに、やさいのくずなどのごみを詰めて奉納する。
これは塵芥(ごみ)と護身(ごみ)のことばが相通じるところからきているのだという。

ここには次のような昔話が伝わっている。
戦国時代に、三村や舟塚山付近の戦いのとき、一人の武士が追手に追われてこの地蔵尊へ逃げ込んできた。
しかし、身体はすでに傷だらけで、もう歩く力もほとんどない。
もう逃げるところはなく、これまでと武士は覚悟を決めた。
その時、突風が起こり、砂塵を巻き上げ、追手の視界を遮った。
武士もやっとの事で目を開けると、すぐそばに一人の老婆が立っており、武士を近くの塵芥の山の中へ隠した。
突風がやみ追手が目を凝らしたが武士はどこにも見えなくなっていた。
追手は老婆に「ここへ、武士が来なかったか」と訊ねた。
老婆は慌てる風もなく「ここには誰も来ておりません。」と平然とこたえた。
その様子に追手も疑うことなくあきらめて行ってしまった。
追手が見えなくなり、武士が塵芥の山から這いでるともう老婆の姿はどこにもなかった。
一命を救われた武士は、この老婆はこの祠の神様に違いないと涙を流して感謝した。
そして、数年後に再びこの地を訪れ、感謝の石地蔵を寄進した。

(あとがき)
国府公民館のすぐ脇であるがこの地蔵尊はこの国道(バイパス)ができるまでは高浜街道沿いの所にあった。
また近くには平景清が産湯を浸かったという室ヶ井の湧き水もあったが、国道工事で昔の姿を考えるのは難しい。
昭和4年の石岡の大火でこの通り(高浜街道)沿いも火が走り、この地蔵堂も焼けた。
その後建てなおしたが、昭和30年に国道6号線のバイパス(今の6号)が完成し、道路にかかったために現在地に移された。
この話は単なる塵芥(ごみ)と護身(ごみ)の言葉の遊びのように思えなくもないが、同じような話は全国各地に残っている。
またこれに似た話が龍ヶ崎の金龍寺の「藁干観音」に伝わっています。
この話を要約すると
「昔、新田義貞が追っ手に追われてこの地に逃げ込んできた。
そして、農家が干していた藁束の前に娘が現れて、義貞をわらの中に隠してくれた。
敵は藁の中に隠れていることに気がつかずに行ってしまった。
そして藁からでてきたところ娘の姿もなく、これこそ観音様の化身に違いないと感謝して、この金龍寺に観音像を寄進して、厚く祀ったということです。」
この金龍寺は、元は群馬県太田市の寺で新田義貞による開祖が伝えられていますので武士が新田義貞になっていてもおかしくはありません。
このように各地方の昔話などを比較してみるというのも想像の輪が広がるようで楽しいものです。
国道6号線の高浜街道との交差点「貝地(かいじ)」近くに「護身地蔵(ごみじぞう)」がある。
この地蔵尊はこの国道ができるまでは高浜街道沿いの所にあった。
この地蔵はお参りすると風邪が治るとの噂で参拝客がやってくる。
そして願いが叶うとと、わらの納豆つっこに、やさいのくずなどのごみを詰めて奉納する。
これは塵芥(ごみ)と護身(ごみ)のことばが相通じるところからきているのだという。

ここには次のような昔話が伝わっている。
戦国時代に、三村や舟塚山付近の戦いのとき、一人の武士が追手に追われてこの地蔵尊へ逃げ込んできた。
しかし、身体はすでに傷だらけで、もう歩く力もほとんどない。
もう逃げるところはなく、これまでと武士は覚悟を決めた。
その時、突風が起こり、砂塵を巻き上げ、追手の視界を遮った。
武士もやっとの事で目を開けると、すぐそばに一人の老婆が立っており、武士を近くの塵芥の山の中へ隠した。
突風がやみ追手が目を凝らしたが武士はどこにも見えなくなっていた。
追手は老婆に「ここへ、武士が来なかったか」と訊ねた。
老婆は慌てる風もなく「ここには誰も来ておりません。」と平然とこたえた。
その様子に追手も疑うことなくあきらめて行ってしまった。
追手が見えなくなり、武士が塵芥の山から這いでるともう老婆の姿はどこにもなかった。
一命を救われた武士は、この老婆はこの祠の神様に違いないと涙を流して感謝した。
そして、数年後に再びこの地を訪れ、感謝の石地蔵を寄進した。

(あとがき)
国府公民館のすぐ脇であるがこの地蔵尊はこの国道(バイパス)ができるまでは高浜街道沿いの所にあった。
また近くには平景清が産湯を浸かったという室ヶ井の湧き水もあったが、国道工事で昔の姿を考えるのは難しい。
昭和4年の石岡の大火でこの通り(高浜街道)沿いも火が走り、この地蔵堂も焼けた。
その後建てなおしたが、昭和30年に国道6号線のバイパス(今の6号)が完成し、道路にかかったために現在地に移された。
この話は単なる塵芥(ごみ)と護身(ごみ)の言葉の遊びのように思えなくもないが、同じような話は全国各地に残っている。
またこれに似た話が龍ヶ崎の金龍寺の「藁干観音」に伝わっています。
この話を要約すると
「昔、新田義貞が追っ手に追われてこの地に逃げ込んできた。
そして、農家が干していた藁束の前に娘が現れて、義貞をわらの中に隠してくれた。
敵は藁の中に隠れていることに気がつかずに行ってしまった。
そして藁からでてきたところ娘の姿もなく、これこそ観音様の化身に違いないと感謝して、この金龍寺に観音像を寄進して、厚く祀ったということです。」
この金龍寺は、元は群馬県太田市の寺で新田義貞による開祖が伝えられていますので武士が新田義貞になっていてもおかしくはありません。
このように各地方の昔話などを比較してみるというのも想像の輪が広がるようで楽しいものです。
子は清水(昔話9)
■子は清水
昔から、関東灘とよばれる酒の名産地石岡市村上は、「村上千軒」といわれるほど大きな村であった。
頃は奈良朝の昔、この村に貧しい親子が住んでいた。
息子は大変親孝行で、毎日山に出かけては薪をとり、それを府中の町に売りに行ってほそぼそと生活していた。
そして、その売れた銭で年老いて病気がちの父親に少しばかりの好きな酒を買って帰るのが日課であった。
そんなある日、いつものように息子は、府中の町へ薪を売りに行ったが、その日は少しも売れなかった。
売れない薪を背負って、しかたなくそのまま家路についた。
村上の入口あたりに来ると、どこからか香しい匂いが漂ってきた。
その香りの源をたどっていくと、木立のなかに清水がこんこんと湧き出ていた。
息子は喜んで、この清水を腰の瓢につめて持ちかえり、父に飲ませると、父はこれは上等の酒(諸白)だと大喜び。
翌日息子は、あまりの不思議さに、昨日の湧き水の場所に出かけて飲んでみると、それはただの清水であった。
それ以来、毎日この清水を父に飲ませると、病気がちだった父も元気になって、二人とも幸せな日々を送ることができたという。
そのことから、父親が飲むと酒の味がして、子どもが飲むと水の味がしたので、この清水を「親は諸白、子は清水」とよぶようになった。
この噂は噂を呼び四方八方へ知れ渡った。
やがて、この話が、天子様のお耳にふれて「関東養老の泉」と命名された。
これは、美濃の孝子の奇跡で、年号を改められた(西暦717年)という「養老の滝の伝説」に似た美談であるからだというのである
この「親が飲めば諸白、子が飲めば清水」という養老孝子伝説は、古くからこの地方に伝わっており、次のような和歌が詠まれている。
なにし負う 鄙の府の 子は清水
汲みてや人の 夏や忘れん
旅人の 立ちどまれてや 夏蔭は
子は清水とて 先ず掬うらん

(あとがき)
美濃の養老の滝伝説がこの地にも伝わった話で、親を大切にする孝行思想と重なっている。
これらの話の残るところは湧き水が豊かで、酒造りに適していた場所であったはずであり、中央にとっても大切な場所であったと思われる。
竜神山の麓の村上は昔多くの人が住んでいた。
竜神山からの湧き水やこのような清水は大切なものであったと考えられる。
今はこの清水の場所は竹林となっており、水のあったと思われる場所が少しくぼ地となっているのみで、水はない。
場所は柿岡道の通りのすぐ左側に看板が立てられている。
ただし、話としてはかなり古いものであり、どのように話が伝えられ、残されてきたのかを大切にしていかなければならない貴重な昔話である。
昔から、関東灘とよばれる酒の名産地石岡市村上は、「村上千軒」といわれるほど大きな村であった。
頃は奈良朝の昔、この村に貧しい親子が住んでいた。
息子は大変親孝行で、毎日山に出かけては薪をとり、それを府中の町に売りに行ってほそぼそと生活していた。
そして、その売れた銭で年老いて病気がちの父親に少しばかりの好きな酒を買って帰るのが日課であった。
そんなある日、いつものように息子は、府中の町へ薪を売りに行ったが、その日は少しも売れなかった。
売れない薪を背負って、しかたなくそのまま家路についた。
村上の入口あたりに来ると、どこからか香しい匂いが漂ってきた。
その香りの源をたどっていくと、木立のなかに清水がこんこんと湧き出ていた。
息子は喜んで、この清水を腰の瓢につめて持ちかえり、父に飲ませると、父はこれは上等の酒(諸白)だと大喜び。
翌日息子は、あまりの不思議さに、昨日の湧き水の場所に出かけて飲んでみると、それはただの清水であった。
それ以来、毎日この清水を父に飲ませると、病気がちだった父も元気になって、二人とも幸せな日々を送ることができたという。
そのことから、父親が飲むと酒の味がして、子どもが飲むと水の味がしたので、この清水を「親は諸白、子は清水」とよぶようになった。
この噂は噂を呼び四方八方へ知れ渡った。
やがて、この話が、天子様のお耳にふれて「関東養老の泉」と命名された。
これは、美濃の孝子の奇跡で、年号を改められた(西暦717年)という「養老の滝の伝説」に似た美談であるからだというのである
この「親が飲めば諸白、子が飲めば清水」という養老孝子伝説は、古くからこの地方に伝わっており、次のような和歌が詠まれている。
なにし負う 鄙の府の 子は清水
汲みてや人の 夏や忘れん
旅人の 立ちどまれてや 夏蔭は
子は清水とて 先ず掬うらん

(あとがき)
美濃の養老の滝伝説がこの地にも伝わった話で、親を大切にする孝行思想と重なっている。
これらの話の残るところは湧き水が豊かで、酒造りに適していた場所であったはずであり、中央にとっても大切な場所であったと思われる。
竜神山の麓の村上は昔多くの人が住んでいた。
竜神山からの湧き水やこのような清水は大切なものであったと考えられる。
今はこの清水の場所は竹林となっており、水のあったと思われる場所が少しくぼ地となっているのみで、水はない。
場所は柿岡道の通りのすぐ左側に看板が立てられている。
ただし、話としてはかなり古いものであり、どのように話が伝えられ、残されてきたのかを大切にしていかなければならない貴重な昔話である。